毒舌

人々の大切な財産である “貯金” を

必死になって “投資” させようとしてる輩がいるんですね。

(しかも “外国” に)

 

ここで言ってる “投資” というのは、

多くの人がイメージするような、

短期間でお金を増やす

という目的だけの、

株やら仮想通貨やらを含めた超くだらねえ話のことです。

 

銀行預金だって “投資” だけど、

多くの人は、単なる貯金だと思ってるでしょ?

私もそうです。

それはそれで、いいんです、べつに。

 

 

『投資』って、

本来すごく壮大な、夢と希望のあるモノだと思います。

というか、究極的には、それしかないモノなんだと思います。

でも、そこには計り知れない大きな価値があると思うんです。

 

 

アホみたいな理屈で、人々の老後の、

経済的な不安を煽り、

“資産運用” という、ちょっと誠実そうな言葉(私はそう思っている)と、

低リスクであるということ(この場合、リスクという言葉すら憚られるのだろう)を掲げ、

 

とにかく “投資” は今や、こんなにも敷居が低くて、

やらにゃ損、損、

“投資” こそが、人々のあらゆる不安を解決してくれる、と言わんばかりに、

広告塔としてアピールし続ける、芸能人たちのアホづら見てもイライラしますが・・・

 

 

実際に、“投資” で大きな成果を得た人がいたとしても、

その人は所詮 “ギャンブル” に当たっただけのこと。

 

 

はっきり言いますが、

お金は大切ですよ。(大切でしょ?)

“ギャンブル” なんぞ、1ミリたりともお金を大切にする行為ではないんですよ💢

 

そう思いませんか。

思わない?

 

あ、そう

 

明大寺マッサージ院 挿絵

 

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正直に言います

世の中に、

『自分は “心の病”を持つ』と、訴える人は多いんですね。

 

“心の病”って何?

と思うかもしれませんが、

まあ、なんとなく思い浮かぶような、

『うつ病』とか『〇〇恐怖症』とか、

それから、よくアルファベット三文字ぐらいで表されるようなモノまで含めた話だと思ってください。

 

 

このような話を耳にする時、

いつも思うことがあります。

 

もしも、あなたの“病気”を完全に克服できる方法があるとしたら、それを実践しますか?

(そのかわり)あなたは病人ではなくなります。

 

という問いかけをしてみたいのです。

 

 

わざわざ、(そのかわり)~ と付け加えた理由は、

それこそが、決定的に問うてみたいポイントだからです。

 

 

以下、私個人の考えです。(純粋な疑問でもあります)

 

癌などの病気に、日々命を削られている人は、

『病気を克服したい』

『健康な体に戻りたい』

『もっと生きていたい』

と、本気で望むでしょう。

 

では、

たとえば『うつ病』の人が、

医師の診断のもとで、(社会人であれば)仕事を休み、

身近な人たちからも一定の理解を得て、

比較的安定した気分で日常を過ごせている状態から、

 

一転して、

何ものにも揺るがない『最強のメンタル』を手に入れ、

社会生活をおくる上で、客観的にみて、自分の“足かせ”になるモノは何もなく、

他者と比べても、自分が不利だと言える要素は何もなく、

すべては、自分でコントロールすべき事であり、

すべて自分の力であり、自分の責任である。

 

という状態を、心から望めるものでしょうか(?)

 

 

わたしは、絶対に望むべきだと思っています。

 

明大寺マッサージ院 挿絵

 

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『お大事に』といったら『お大事に』

以前、テレビで見たんですが、

先天的に『痛み』を感じない人がおりまして、

この人は、当時まだ子供なんですけどね、

痛みを感じないがゆえに、ケガをすることも多いらしいんですね。

 

彼は、痛みを感じないだけであって、

身体の強度といいますか、(言葉が適切ではないかもしれませんが)

皮膚・筋肉・骨などの耐久性は、他の人と同じなわけです。

 

でも痛みを感じないので、

たとえば、日常の遊びの中で、

体を傷つけてしまうような負荷を、体に掛けてしまうことがあるらしいんですね。

 

テレビで見たとき印象的だったのは、

骨折した脚が治っていないのに、ピョンピョン飛び跳ねて、はしゃいでいる姿でした。

 

何度か、崩れ落ちるように床にしゃがみ込むんですが(そりゃそうですよね)、

やはり、全く痛みを感じていない様子でした。

 

それで結局、

周囲の人間にとって、難しい事というのは、

ケガを治すために、

本人に、患部を安静に保つことを徹底させる事なんですね。

 

 

みなさんは、

肌を擦りむいたり、切ったりしたときに、

絆創膏を貼ったりしますよね。

 

患部に触らなければ、べつに貼らなくてもいいんですけどね、

でも、なにかしら触ってしまうので(衣類で擦ったり)、

患部を安静にするために覆ってしまうわけですね。

 

 

体の表面のケガに対しては、

だれでも気を使いやすいんですけど、

その一番の理由は、見た目に痛々しいからだと思います。

 

これが、“体の内側の ケガ” となると、

見た目の痛々しさを感じにくいので、

『痛み』だけが、患部を意識させる要素となるわけですね。

 

“ぎっくり腰” や “五十肩” でもですよ、

特定の動作や、患部周囲の状態によって、

患部に何かが触れたり、圧迫されたりするから、

強い痛みを感じるわけです。

 

絆創膏でも貼れりゃいいんでしょうけどね、できないから、

その代わりに、

患部(炎症を起こしている部分)が、

極力、周囲からの接触・圧迫を受けにくくするための処置を行うことはできます。

(とはいえ、それで完全に患部を保護することなんて出来ないですよ。少なくても私には)

 

 

たとえば、痛い所に骨が当たっていたら、よけいに痛いですよね。

だから、骨に当たるところから、ほんの少しズレるように、

あるいは、痛い所と骨との間に、ほんの少し隙間が空くように、

そういう状態にあるとき、

患部は『安静』に保たれているわけです。

 

そして、安静が保たれる中で『治癒』していきます。

 

 

しかし、この安静な状態は、患者さん本人の行動次第で、容易に崩されてしまいます。

 

 

ちがう角度からの話ですが、

いわゆる麻酔によって、痛みを感じなくした場合はどうでしょう?

 

これも、患部をより安静に保つための処置に他なりません。

なにより、

強い痛み、夜間に増強される痛みは、心身を消耗させますから、

痛みから解放されることで、体力を温存し、治癒を早めるでしょう。

 

ところが、

多くの人は、痛みが無くなったとたんに、普通の生活をしてしまうでしょう。

これは、先に述べた “痛みを感じない人” と同じことです。

 

 

あらためて考えてみますとね、

痛いからこそ、痛い動きを避けようとするし、痛い所を庇いもするわけですよね。

(例のテレビ番組のテーマも、そういうことだったかも)

 

最後に、これだけは言わせてください。

安静にするから治るのだと

 

つきぐっちゃん昼寝

 

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新年度に思う

この3月に、姪っ子が高校を卒業しまして、

『美容師』を志して専門学校に入学するそうです。

 

そうですね、そんな時期でした。

 

 

多くの人にとって、

人生で最初に、“進路” というものを、それなりに真剣に意識するのが、高校を卒業する時期なのではないでしょうか。

 

 

自分が『やりたいこと』とか『成りたいもの』が明確であるということは、

なんというか、すごく良いことだと思います。

人生というものを、

目標を軸にして展開していけるということは、

とても楽しいことだからです。

 

 

ただし、

自分が心から『やりたいこと』『成りたいもの』を見つけることは、

最も難しいことなのかもしれません。

 

 

私は、施術家を志したとき、すでに40歳を過ぎていました。

『按摩マッサージ指圧師・鍼灸師』の資格を取得するために、専門学校に通いました。

 

あたりまえの事ですが、

国家資格を取得するための学業の日々は過酷なものでした。

勉強だけでなく、校則など、学校生活全般において非常に厳しかったです。

しかも、入学していきなり “学級委員” やってましたからね(嘘じゃありません、証拠は無いけど)

 

 

ミュージシャンの甲本ヒロトさんが、

『やりたい事をやるために、やらなければいけない事がある』と言っていましたが、

そのとおりだと思います。

 

 

学校生活、国家試験、開業して今日に至るまで、

それを全う出来たのは、

自分が『成りたいもの』そして今、

自分が『何者であるか』に対する気持ちが揺るぎないからに他なりません。

 

 

専門学校に通っていた当時、

何十万円もの学費を払って入学したのに、

どんな理由であろうと、半年も経たずに辞めてしまう人や、

明らかに勉強不足な人、

そういう人が何人もいましたが、

 

けっきょく、

その先にあるものが、本当に『やりたいこと』『成りたいもの』ではなかったとしたら、

その為に、目の前の『やりたくないこと』に取り組むことなど、けっして出来ないでしょう。

 

そういう意味では、

ほんとうに『やりたいこと』を見つけるのは難しくとも、

そうでない場合の判断は容易であると言えます。

そこに対して時間とお金を掛け続けるのは、

正しい選択ではないかもしれません。

 

 

だからやっぱり、

“若い” ってことは、ありがたいことなんですよね。

いくらでも道を選び直せますからね。

10代の若者に言っても分からないでしょうけどね。

 

もちろん、何歳から何をやり直したって、なにも問題ありませんけどね。

健康でさえいればね

 

あいさつブログ

 

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優れた運動のススメ

スポーツを趣味にもつ人が、

それによって体を痛めてしまうのは、すごく勿体ないことだと思います。

 

 

スポーツにも色々ありますが、

独自に分類してみたいと思います。

 

①『ゲーム』・・・対戦相手と競い合うもの、球技、格闘技など

②『レース』・・・個々人が記録・得点を求めるもの、陸上競技、体操競技、重量挙げなど

③『トレーニング』・・・能力向上、健康増進、精神修養、外見を良くする、などの目的で行うもの

(曖昧なもの、どれにも当てはまらないもの、当然あると思いますが)

 

 

この三つの中で特に、

『ゲーム』を趣味にしている人が、

そのことを楽しむ一方で、筋肉痛やケガに悩まされることが多いように思われます。

(あくまでも趣味のレベルで行っている人の話です)

 

その理由についてお話しします。

 

 

『ゲーム』は、その時々の展開に応じて、求められる行動(動作の種類・動作の方向・動作の強度)が様々です。

そして動作の種類については、表面的に “左右非対称的” な動きが多いです。(左右の動きの質・量が異なる)

 

『レース』の場合は、展開が規則的で、求められる行動も規則的です。(合図に従って一定の距離を走ったり、一人ずつ順番に演技を行ったり)

動作の種類については表面的に左右対称的な動きが多いです。(左右の動きの質・量が均等である ※投擲競技の場合は違いますね)

 

『トレーニング』は、そもそも、体をケアするために行うものですから、それによって体を痛めてしまうとしたら、やり方が間違っているということです。

 

 

つまり、

展開が不規則で、動きが不規則であるほど、体を痛める可能性は高いと言いたいわけですが、

 

現に、プロの『ゲーム』プレイヤーなどは、ケガとの闘いでもあります。よく聞く話です。

彼等は日々、

ケガを防ぐために、あるいはケガを克服するために、『トレーニング』を欠かしません。

更に、

プレーする前には、入念に準備運動をするものです。

 

プロですら、そうなのです。

 

しかるに、

趣味で『ゲーム』を行う人の多くは、

『ゲーム』を楽しむことには熱心ですが、『トレーニング』が足りていません。

週末だけ、いきなりプレーしたら、体のあちこちが痛くなるのは当たり前です。

 

 

とある肉体労働の現場で、

ある保健師さんが、労働者たちに対して言いました。

『残念ながら、みなさんの仕事は、けっして運動の代わりにはなっていません。だから、毎日仕事していても大半の方は運動不足です。』

 

 

ごく少数の人は、仕事の中に『トレーニング』性を見出し、

それを毎日行っているということです。

 

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他には何も ♪

ちょっとややこしい事を言いますが、

 

私は、この世の中に 『芸術』というもの、そして『芸術家』という者が、

たしかに存在している事を認めます。

しかし、

『芸術』とは何か? という思考をすることは、

無駄で、価値の無いことだと思っています。

だから芸術の話は、これで終わります。

 

 

人間だれしも、好きなモノってあると思います。

 

好きであることに明確な理由がある場合の『論理的に好ましい』と、

もっと感覚的な(感情的な)『なんか好き』

というものがあると思います。

 

とくに後者の場合だと、

その対象が、どのようなモノゴトであろうとも、

その人の多くの思考と言動を支配するモノになり得るのではないでしょうか。

 

私自身、それ無しでは生きていけないほど傾倒しているものがあります。

それほどの感情であるにもかかわらず、

いちばん根底にあるのは、いわく言い難い、『好きである』としか言いようのない感覚です。

 

それは、その人自身にしか分からない感覚であり、

本来それで良いのですが、

 

まれに、

個人の『いわく言い難い感覚』に基づいた、何らかの『表現』が、

その『表現』に触れた他者に、

表現者と同じ感覚(感情)を覚えさせることがあるらしいのです。

(心を覗いて見ることは出来ないし、そもそも『いわく言い難い』感覚ですから、証明することは出来ませんけどね)

 

 

それで、思ったんですけどね、

そういう現象こそが芸術と言えるのではないでしょうかね。

芸術の話しちゃった

 

つきぐっちゃん昼寝

 

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姿かたちが持つチカラの話

例えば、肌が乾燥しがちな人がいるとします。

 

さて、この人が体質を改善しようと思ったら、

どのような事を実践すべきなのでしょうか。

 

 

『水分を多く摂取すること』と思うかもしれません。

 

しかし、“水分を体に留めておく力” (即ち、保水力・保湿力) が弱ければ、

水分そのものを多く摂取しても意味がありません。

 

 

一つの方法として、

“水分を体に留めておく力”  を持っていそうなモノを『食する』ということが挙げられます。

 

食することによって、そのモノがもつ力(氣)を会得するという考え方です。

 

 

もちろん、『食する』からには、食べられる物でなければいけませんが、

どんなものを食べたら良いのでしょうか?

 

やっぱり、『ミカン』なんかどうでしょう?

見るからに保水力ありそうですよね。

柑橘系の果物を見て、人間の体や細胞などを連想する人もいると思います(いませんか?)

そこが結構大切なポイントだと思うのです。

(言っておきますが、ここでは化学的な話は抜きです)

 

 

確認ですが、

果汁たっぷりのミカンを食べたところで、

水分量なんて大したものではありません。

ミカンがもつ力(氣)を取り入れるために食べるのです。

 

 

ここまでの話は根本的に、ある思想に基づくものです。

それは、『氣』というエネルギーを性質によって分類するという考えです。

 

どのように分類するかといえば、

形、色、質感、動き、など・・・

万物がもつ性質を比較し、

似た性質をもつモノは、同じグループの『氣』をもっていると考えられます。

(逆に言えば、その『氣』の性質によって、然るべき姿形になっているといえます。)

 

 

大きく五つに分類したものが『五行説(ごぎょうせつ)』と呼ばれ、

これは、東洋医学の診断・治療を行う上でとても重要です。

 

 

中国武術の中にも、五行説に当てはめた『五行拳(ごぎょうけん)』や、

十二種類の動物の姿を模した『十二形拳(じゅうにけいけん)』などが存在します。

(動物の姿を模倣することで、その動物の力(氣)を会得する、という考えに基づいています)

有名な『太極拳』は自然の摂理そのものを表しています。

 

 

『氣』を分類するという事を、

『学問』として体系化しようとすれば、細かく膨大な知識へと発展してしまうのは仕方のない事かもしれませんが、

本来は、とてもシンプルで直感的な話なのです。

むしろ直感的でなければ、

『氣』という概念の本質をとらえることは出来ません。

 

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時間と空間と気の話

今回は、とても分かりにくい話になるかもしれません。

どこから、どんな順序で話したらいいのか、

上手くまとまるのか分かりませんが、

思いつくところから話していきたいと思います。

それでは、いきます

 

 

『強迫性障害』とか『不安障害』なる言葉がありますが、

これらの言葉の定義や、表現の仕方について、

ここでは不適切な部分があるかもしれませんが、ご容赦ください。

 

 

上記のような疾患のなかの一つに、『確認強迫』というものがあるそうです。

 

たとえば、【外出の際に、家の鍵を閉めたかどうか気になって、何度も確認してしまう】というやつです。

(ひどければ、わざわざ遠方から戻ってきてまで確認してしまう)

 

このような行動は、過度であれば心身を消耗させるでしょうし、

生活に支障をきたす事もある、という点で問題視されるのでしょう。

 

 

ここからは、

私自身の主観的な体験に基づく話をしていきます。

 

 

私も、『鍵しめ』の確認を何度もしてしまうことが、過去にはありました。

そのときの “思考” を、正確に文字にすると次のようになります。

 

 

『今、たしかに鍵を閉めた』

『ドアノブは回らない』

『ドアは開かない』※ →(ここで『OK!』となるなら何の問題もありません)

 

・・・・

『いま、ほんとうに鍵をしめたんだろうか?』

鍵をしめたということが、万が一思い込みだとしたら?』※(この思考が非常に特徴的で、一番の問題であるように思います)

 

 

そして、もういちど鍵を取り出し、鍵を開けます。

 

『鍵が開いたということは、ちゃんと閉まっていたということ』※(一瞬はさみ込まれる思考)

『これは、2回目の鍵しめである』

『万が一、1回目が  “思い込み”  だった場合の保険である』

『もし、2回とも  “思い込み”  だったとしたら、それは仕方ない事』※(2回目の鍵しめを行う際の『前置き』となる思考)

 

 

けっきょく、

2回目の鍵しめを行って出かけますが、(しばらくの間)モヤモヤした気持ちで過ごすことになります。

 

ついでに言うと、

帰ってきて鍵を開けた時、

『あれ? いま、鍵開けたんだっけ? (-_-;)』

と、なります。

 

 

このようなことは、『強迫性障害』というものには当たらないでしょうし、

そこまで深刻に考えた事もありませんが、

自分なりに、この思考パターンを考えてみたときに、

はじめは、『不安』の存在が原因だと思っていましたが、

そうではなく、

何かをする時に、他の思考が入り込んで頭がモヤモヤし、その状態で行った事について実感が弱くなる

という状態があることが分かりました。

 

 

つまり、

鍵をしめても、その行動についての実感が弱いので、自信が持てなくなる

という感じです。

その瞬間の集中力の問題とも言えるかもしれません。

 

 

そうなると、

頭がモヤモヤした状態で何をやっても、じつは、その行動についての実感は弱いのですが、

その行動に不備があっても、特に大きな問題にならない事柄については、

“強迫的” な思いに囚われていないだけ、ということになります。

 

 

あるとき、

“テクニック” を編み出しました。

(極めて感覚的な事なので、具体的な動作の描写のみ記述します)

 

例えば、鍵をしめようとするとき、

その鍵穴やドアノブ付近のホコリを払うかのように、手で空間を振り払う動作をするのです。

(勝ち名乗りを受ける力士が、小さく手刀をきる所作にも似たイメージがあります)

すると、頭のモヤモヤした感じまでが、スッキリと霧が晴れたようになって、

次に行う鍵しめの動作が、すんなりと 一発で『落とし込まれる』のです。

 

 

これは、一種の『気功』であり、

個人的には、

いわゆる神事における所作というものも、同様の意味があると思っています。

モヤモヤした感じを、気の滞りとして捉え、その空間を切り払うイメージと共に、気を入れ換えるのです。

 

私は、こういった事を “科学的” に考察するつもりはありません。

そうすることに、あまり興味が無いのです。すみません

もし、今回の話に共感していただける何方かに、ほんの少しでもお役に立てれば幸いです。

 

 

今年最後の投稿は、唐突な話題で長文になってしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

2023年も、よろしくお願いいたします。

 

つきぐっちゃん昼寝

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そこに愛は

『ブラックバス』 と呼ばれる魚がいます。

いわゆる外来生物ですが、

この魚の生態について、興味深い話をききました。

 

(これはブラックバスに限ったことではないかもしれませんが)

 

産卵期から一定の期間(稚魚がある程度の大きさになるまで)主にオスが、卵および稚魚を外敵から守るのですが、

それ以降は、いままで自分が守っていた稚魚を、平気で捕食しはじめるそうなのです。

 

 

この一連の行動は、すべて  “ホルモン”  の作用(の変化)によって起きていると言われています。

(ホルモンとは、生体が生命活動を維持する上で、さまざまな働きをする『分泌物』のことです)

つまり、ある時期まで子供を守るのはホルモンの作用による行動であり、

表現が適切ではないかもしれませんが、『本能的な欲求に従う行動である』ということです。

 

そして、ホルモンの作用が止まった後、

目の前にいる我が子は、捕食対象の小魚でしかないと・・・

 

ちなみにナマズも、数万個もの卵を産み、その一方で  “共食い”  をすることが知られています。

 

 

このような生態を現実的に考えてみると、

そもそも、沢山の子供を産むということは、

その中の一定数は、同族の食料となること(共食い)が前提であり、

その種族の中で、なるべく効率的に食料を “自給”  するシステムとして機能しているのかもしれません。

 

 

今回このような話をした理由は、

他でもない、人間の営みにおいて、

『先述した生物の生態と、人間のソレとは決定的に異なる』

と、言い切れるのか(?)

という疑問が生じたからです。

 

そのキッカケは、

昨今、大人が子供を、

あるいは、親が子を  “虐待”  するはなしを耳にすることが多かったからです。

(もっとも、そういった情報が、集中的に取り上げられているせいでもありますが)

 

 

人間が、

頭で考えること、心で感じること、自我であると認識していること、

それら全てが、

『脳内で起こっている、何らかの信号の処理にすぎない』

という考えが、仮に現実だとすれば、

 

何らかの原因で機械が故障するかのごとく、

人間とて、

一瞬にして暴走してしまうのかもしれません。

(いや、それが正に現実なのか?)

 

なら、どうする

 

つきぐっちゃん昼寝

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自問

“防衛費” とは、

この国を守るために掛かる費用ということでしょうか。

一般的には、軍事に関わる費用ということですかね(?)

 

 

“何から” この国を守るのか(?)といえば、

それは、他国からの攻撃ということでしょうか。

 

 

仮に、

他国が、この国を攻撃する『理由』があるとして、

 

どのような攻撃が行われると予測され、

それに対して、どのような防衛方法がとられるのか、

 

その防衛方法とは・・・・・

国民の命を完全に守り切れるものなのか(?)

(そうでなければ、意味がないと思うから)

 

 

ひとつの具体的な問題を考える必要性が生じるのだけれど・・・

 

 

他国(どこの国?)の軍事力とは?

それは、具体的に把握できる事なの?

 

国民の命を完全に守り切れなければ意味がないのだから、

“ある程度”  把握してもダメなんですよ。(足りないんですよ)

 

 

そんなこと不可能じゃないの?

 

 

もう、やめます。

 

このような思考は、どのように巡らせても破綻するわけです。

 

 

けっきょく、

“防衛費” と呼ぶかぎり、無限に増え続けるに決まってますよね、

 

たいした説得力も無いままにね

 

おかしな話ですね。

 

明大寺マッサージ院 挿絵

 

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