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今年もよろしく

新年のご挨拶が遅くなりました、本年もよろしくお願いいたします。

 

ところで、インフルエンザが流行していますね。

そこで、ぜひお薦めしたい事があります。

それは『鼻うがい』なのですが、やり方に特徴がありまして、

以下に説明します。

 

 

鼻うがい 1

 

図のように、『鼻から吸って鼻から出す』方法です。

冷水でも、ぬるま湯でも結構です。回数は3~5回

 

ポイント① 鼻の奥のほう(それ以上吸うと水が口のほうに入るぐらいの所)まで吸い込む

※つぎが重要

ポイント②奥まで吸い込んだ瞬間に、できるだけ勢いよく鼻から吐き出す(一滴も残さず吐ききる)

 

たいして難しくありませんし、繰り返し行ってると上手くなっていきます。

そして、上手くなると効果が上がると思います。

 

 

わたしは、もともと体の丈夫さには自信があり、『鼻うがい』も上記の方法とは違う方法(鼻で吸って口から吐く方法)で習慣的に行っていたことがあります。もちろんフツーの口でガラガラやるうがいも

それでも、一年の内で最も寒く空気が乾燥する時期には、鼻の奥の方と喉が腫れぼったい感じがしていました。

 

それが、鼻うがいの方法を変えてから4年以上経ちますが、そのような症状が一切出なくなりました。

 

 

なぜ、上記の『鼻うがい』が良いのか?

効果を証明できるのか?

風邪とインフルエンザは違う?

鼻がつまってたら出来ない?

などの疑問はありますが、

ハッキリ言って、何一つ明確に答えられません。

 

私自身の体験に基づく感想だけでお薦めするものですが、

 

このようなこと、何のリスクも無く、時間もお金も掛けずに(水道代はかかりますね💦)できることです。

 

しばらく試してみても良いのでは?

ほんとに、たかが『鼻うがい』ぐらいのこと、

 

本気でお薦めします。

 

つきぐっちゃん昼寝

力があって、技がある

武術の世界で、よく以下のようなパフォーマンスが行われることがあります。

 

実演者が “被験者” に対して、先ず、肩をいからせて(力まかせのフリをして)無理やり技をかけようとします。

しかし、それでは技はかかりません。

次に、あからさまに力を抜いて技をかけると、あっさりと技がかかります。

そして、異口同音に『脱力』することの重要性が説かれます。

 

このとき、『脱力するから(したほうが)技がかかる』という説明をされた場合は、注意が必要です。

その説明が嘘とは言いませんが、説明不足だからです。

同様に、『力を使わない』という表現も大きな誤解を生む可能性があります。

 

 

技をかける人間が “脱力” する理由は、

力を抜くほど、より大きな力を発揮できる構造を体に構築しているからなのです。

(その構造については、多くの人によって様々な理論が、その人の主観による『極意』として語られています。)

多くの場合、その構造は『型(形)カタ』によって構築されます。

型とはそういうモノであるという認識が無ければ、恐らくは『型』を修練することに魅力を感じることは無いでしょう。

また、そのような構造が構築されるかどうか、という点で『型』の善し悪しを判別することができます。

 

『力を抜くほど、より大きな力を発揮できる構造』を持たない人がいくら脱力しても、

それはタダの脱力でしかなく、そこには何も起こりません。

先にも述べましたが、

『脱力・力を抜く・力を使わない』といった力を否定する方向での表現は(単に表現の問題だとしても)、大きな誤解を生む可能性があるのです。

 

 

モノゴトの得手・不得手も、このことに関係があります。

ある動作が得意であるということは、その動作を行う上で大きな力を発揮できる構造を持っているということです。

つまり、ある動作を『行いやすい』ということは、『力を出しやすい』ということであり、

そして、力を出しやすいということは、

より小さな挙動で大きな力を出せるということです。

『サラリとやってのける』状態です。

 

 

武術の話に戻しますが、

もしも、『技をかけるときに力は必要ない』と言うのであれば、

そして、それが言葉通りの意味だとしたら、

極端な事を言えば、相手に手を触れずに技をかけることもできるハズです。

だって、そこには力が存在しないんだから。

しかし、そのようなものは存在しません。(あえてハッキリ言います)

 

ちょっと屁理屈のようなことを言いましたが、

でもホントのことです

 

つきぐっちゃん昼寝

奥義の話

『太極拳は、どうやって使うのですか?』

 

このような質問に対して、まず答えられることは、

『日常の様々な場面において常に使われています、今この瞬間もです。』

ということです。

 

どういうことかというと、

(ほんとうに、その言葉通りなのですが)

 

まず『太極拳』は、その発祥については諸説あり、いくつかの流派がありますが、

いずれにしろ『武術』でありますから、

『どうやって使う?(使い方)』と問われれば、

それは『武術の使い方』という意味での答えになります。

 

そして『武術』とは、古今東西に存在し、

その使用目的と、使用する上で想定される状況は『無限』に存在します。

あらゆる状況に対して、その全てに(何かしらの)対応をするのが『武術』であり、

空手道や、柔道も同じです。

 

ここで大切な事は、

【あらゆる状況に対応するために、たくさんの技を身につける】ということではなく、

状況に応じて無限に拡張し得る『基盤』のようなモノを身につける】ということです。

これは、いわゆる『形(型)カタ』と呼ばれるモノを反復練習することによって身につけることができます。

 

その『基盤』とは、

まず何と言っても【腹の座った感覚】、それによる【適度なリラックス感 (≠完全脱力)】、それによって有効となる【身体の重さ(≠体重)】、・・・【視覚以外で周囲の空間を捉える肌感覚】などです。

形を練習する目的を間違えると、これらの重要な感覚を身につけることが困難になってしまいます。

 

ある武術の『形』は、『技』としての体裁をしていますが、それは一つの目安に過ぎず、

それよりも遥かに重要な『身体的な変化』と、そこから生まれる『感覚』に着目していかなければ、

いつまでたっても『形』は空虚なモノであり続け、

結果として、

『形を練習しても意味が無い』、『武術は使えない』、『太極拳は使えない』

という間違った考えに至ってしまいます。

これは非常に勿体ないことです。

 

 

太極拳に『単鞭(たんべん)』という象徴的な形があります。

左の掌を前方にかかげ、右手は鈎手(こうしゅ)という独特の形にして右の側方にかかげます。

 

これについて、次のような解説を聞いたことがあります、

『右手(鈎手)は右のコメカミの高さに置きます。これは、相手が右から頭部を蹴ってきた時に防ぐためです』

 

 

はっきり言いますが、そんなワケありません。

 

つきぐっちゃん昼寝

久しぶりのヒドイ花粉症⁈

8←クリックすると拡大

 

こういうのって多分、お酒やタバコの年齢確認と同程度のことだと解釈しますけど、

このようなルールが設けられる背景には・・・

あまり言及はしたくないんですけど、

用法・用量を守らず服用する事例が増えているってことなんですかね?

 

正直言って私は、

市販のクスリを誰がどんな飲み方したって、その人の責任だと思ってるんですよ。

あ、決めつけは良くないですねスミマセン、そういう問題ではないかもしれないし、

 

とにかく私は、

自分が原因で他者を待たせることが本当にイヤです。

自分が待つことは全く苦ではないんですけどね。

 

ある意味、非常に自己中心的な性格です。

 

つきぐっちゃん昼寝

我は人なり

大地震から一か月半ほど経過しましたが、

今も被災者の方々は、寒さの厳しい季節の中で大変なご苦労に耐えていらっしゃることだと思います。

人々が求めていることが、速やかに実現されることを望みます。

 

 

そういえば、『千羽鶴』が大災害の被災地等に送られることについて、

現在では、否定的な意見が一般的であると認識しております。

現実的なことを考えれば、当然かもしれません。

 

必要とされる『物資』にしても『人力』にしても、

適切に支援することは、なかなか難しいことのようで、

もはや、個人レベルの “善意” による行動などは、『無いよりマシ』というレベルにも及ばないのではないか?

そう思えてしまいますが・・・

 

 

多くの場合、

人が心底から求める事と、

求めに応じようとする人との間には、

『ズレ』があるものではないでしょうか。

 

その求めるモノが、いかに具体的であったとしても、

求める側には『理由』があり、

与える側にとっては『そのモノ』でしかないとしたら、

同じモノに対する “熱量” の違いというものが、まず存在することになります。(うまく言えませんが)

 

 

以前、あるテレビ番組を観ました。

とある国(貧困率の高い国とだけ言っておきます)で活動する日本人医師が紹介されていました。

その土地の多くの人々にとって、その方の提供する医療は無くてはならないものでした。

 

そのなかで、先天的に足の骨格に異常をもった少年が登場しました。

少年の片方の足は、足首から先が異常な方向を向いていました。

日本人医師は、少年の足に手術を施すことにしました。

 

手術前、

少年は、『足が治ったらサッカーがやりたい』と話していました。

 

手術は終わり、少年の足は、外見的には正常な足の形に近づいていました。

この時に医師の行った手術は、同様の患者に対して一般的に行われる方法がとられており、

手術の結果についても、医療環境などを考慮すれば『成功』といえる範囲のものでした。

 

 

(ここからは、私個人の憶測を含む見解です)

 

その後(手術から回復した後)の少年は、

サッカーボールを足で転がす様子は映されていたものの、その表情は、どこか寂し気に見えました。

 

ふと思いました。

手術前、『足が治ったらサッカーをやりたい』と言っていた、その言葉の真意は、

『プロのサッカー選手を目指したい』という意味だったのではないかと。

 

その国の子供たちにとって、

プロスポーツ選手になることは、“立身出世”  への道なのでしょう。

 

手術後の少年の足は、ボール遊びをするには十分といえる状態ではありましたが、

サッカー選手を目指すには不十分だったのでしょう。

そのことは、少年自身が一番よく分かっていたと思います。

少年の表情は、望みが絶たれたことを悟ったかのようでした。

 

もう一度言いますが、これは憶測です、真実とは異なるかもしれません。

事実として、

医師の処置は、少年の体の状態を確実に改善させたのです。

 

 

人が何かを求めるとき、そこには『理由』があると言いましたが、

『想い』があると言うべきかもしれません。

 

 

私の仕事は、一つは『痛みをとること』、そして『健康維持のお手伝いをすること』ですが、

それは、言い換えると『人の目標達成のお手伝いをすること』だと思ってきました。

(少なくても、そこに通じていると)

 

しかし、

『想い』を共有(共感)することが無ければ、

結果として、

人が進みたい『道』とは違う『道』の先を自分が見ていることに気が付かぬ、

そういう危険性もあるということです。

 

考えすぎですね

 

つきぐっちゃん昼寝