力があって、技がある

武術の世界で、よく以下のようなパフォーマンスが行われることがあります。

 

実演者が “被験者” に対して、先ず、肩をいからせて(力まかせのフリをして)無理やり技をかけようとします。

しかし、それでは技はかかりません。

次に、あからさまに力を抜いて技をかけると、あっさりと技がかかります。

そして、異口同音に『脱力』することの重要性が説かれます。

 

このとき、『脱力するから(したほうが)技がかかる』という説明をされた場合は、注意が必要です。

その説明が嘘とは言いませんが、説明不足だからです。

同様に、『力を使わない』という表現も大きな誤解を生む可能性があります。

 

 

技をかける人間が “脱力” する理由は、

力を抜くほど、より大きな力を発揮できる構造を体に構築しているからなのです。

(その構造については、多くの人によって様々な理論が、その人の主観による『極意』として語られています。)

多くの場合、その構造は『型(形)カタ』によって構築されます。

型とはそういうモノであるという認識が無ければ、恐らくは『型』を修練することに魅力を感じることは無いでしょう。

また、そのような構造が構築されるかどうか、という点で『型』の善し悪しを判別することができます。

 

『力を抜くほど、より大きな力を発揮できる構造』を持たない人がいくら脱力しても、

それはタダの脱力でしかなく、そこには何も起こりません。

先にも述べましたが、

『脱力・力を抜く・力を使わない』といった力を否定する方向での表現は(単に表現の問題だとしても)、大きな誤解を生む可能性があるのです。

 

 

モノゴトの得手・不得手も、このことに関係があります。

ある動作が得意であるということは、その動作を行う上で大きな力を発揮できる構造を持っているということです。

つまり、ある動作を『行いやすい』ということは、『力を出しやすい』ということであり、

そして、力を出しやすいということは、

より小さな挙動で大きな力を出せるということです。

『サラリとやってのける』状態です。

 

 

武術の話に戻しますが、

もしも、『技をかけるときに力は必要ない』と言うのであれば、

そして、それが言葉通りの意味だとしたら、

極端な事を言えば、相手に手を触れずに技をかけることもできるハズです。

だって、そこには力が存在しないんだから。

しかし、そのようなものは存在しません。(あえてハッキリ言います)

 

ちょっと屁理屈のようなことを言いましたが、

でもホントのことです

 

つきぐっちゃん昼寝

奥義の話

『太極拳は、どうやって使うのですか?』

 

このような質問に対して、まず答えられることは、

『日常の様々な場面において常に使われています、今この瞬間もです。』

ということです。

 

どういうことかというと、

(ほんとうに、その言葉通りなのですが)

 

まず『太極拳』は、その発祥については諸説あり、いくつかの流派がありますが、

いずれにしろ『武術』でありますから、

『どうやって使う?(使い方)』と問われれば、

それは『武術の使い方』という意味での答えになります。

 

そして『武術』とは、古今東西に存在し、

その使用目的と、使用する上で想定される状況は『無限』に存在します。

あらゆる状況に対して、その全てに(何かしらの)対応をするのが『武術』であり、

空手道や、柔道も同じです。

 

ここで大切な事は、

【あらゆる状況に対応するために、たくさんの技を身につける】ということではなく、

状況に応じて無限に拡張し得る『基盤』のようなモノを身につける】ということです。

これは、いわゆる『形(型)カタ』と呼ばれるモノを反復練習することによって身につけることができます。

 

その『基盤』とは、

まず何と言っても【腹の座った感覚】、それによる【適度なリラックス感 (≠完全脱力)】、それによって有効となる【身体の重さ(≠体重)】、・・・【視覚以外で周囲の空間を捉える肌感覚】などです。

形を練習する目的を間違えると、これらの重要な感覚を身につけることが困難になってしまいます。

 

ある武術の『形』は、『技』としての体裁をしていますが、それは一つの目安に過ぎず、

それよりも遥かに重要な『身体的な変化』と、そこから生まれる『感覚』に着目していかなければ、

いつまでたっても『形』は空虚なモノであり続け、

結果として、

『形を練習しても意味が無い』、『武術は使えない』、『太極拳は使えない』

という間違った考えに至ってしまいます。

これは非常に勿体ないことです。

 

 

太極拳に『単鞭(たんべん)』という象徴的な形があります。

左の掌を前方にかかげ、右手は鈎手(こうしゅ)という独特の形にして右の側方にかかげます。

 

これについて、次のような解説を聞いたことがあります、

『右手(鈎手)は右のコメカミの高さに置きます。これは、相手が右から頭部を蹴ってきた時に防ぐためです』

 

 

はっきり言いますが、そんなワケありません。

 

つきぐっちゃん昼寝

久しぶりのヒドイ花粉症⁈

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こういうのって多分、お酒やタバコの年齢確認と同程度のことだと解釈しますけど、

このようなルールが設けられる背景には・・・

あまり言及はしたくないんですけど、

用法・用量を守らず服用する事例が増えているってことなんですかね?

 

正直言って私は、

市販のクスリを誰がどんな飲み方したって、その人の責任だと思ってるんですよ。

あ、決めつけは良くないですねスミマセン、そういう問題ではないかもしれないし、

 

とにかく私は、

自分が原因で他者を待たせることが本当にイヤです。

自分が待つことは全く苦ではないんですけどね。

 

ある意味、非常に自己中心的な性格です。

 

つきぐっちゃん昼寝

我は人なり

大地震から一か月半ほど経過しましたが、

今も被災者の方々は、寒さの厳しい季節の中で大変なご苦労に耐えていらっしゃることだと思います。

人々が求めていることが、速やかに実現されることを望みます。

 

 

そういえば、『千羽鶴』が大災害の被災地等に送られることについて、

現在では、否定的な意見が一般的であると認識しております。

現実的なことを考えれば、当然かもしれません。

 

必要とされる『物資』にしても『人力』にしても、

適切に支援することは、なかなか難しいことのようで、

もはや、個人レベルの “善意” による行動などは、『無いよりマシ』というレベルにも及ばないのではないか?

そう思えてしまいますが・・・

 

 

多くの場合、

人が心底から求める事と、

求めに応じようとする人との間には、

『ズレ』があるものではないでしょうか。

 

その求めるモノが、いかに具体的であったとしても、

求める側には『理由』があり、

与える側にとっては『そのモノ』でしかないとしたら、

同じモノに対する “熱量” の違いというものが、まず存在することになります。(うまく言えませんが)

 

 

以前、あるテレビ番組を観ました。

とある国(貧困率の高い国とだけ言っておきます)で活動する日本人医師が紹介されていました。

その土地の多くの人々にとって、その方の提供する医療は無くてはならないものでした。

 

そのなかで、先天的に足の骨格に異常をもった少年が登場しました。

少年の片方の足は、足首から先が異常な方向を向いていました。

日本人医師は、少年の足に手術を施すことにしました。

 

手術前、

少年は、『足が治ったらサッカーがやりたい』と話していました。

 

手術は終わり、少年の足は、外見的には正常な足の形に近づいていました。

この時に医師の行った手術は、同様の患者に対して一般的に行われる方法がとられており、

手術の結果についても、医療環境などを考慮すれば『成功』といえる範囲のものでした。

 

 

(ここからは、私個人の憶測を含む見解です)

 

その後(手術から回復した後)の少年は、

サッカーボールを足で転がす様子は映されていたものの、その表情は、どこか寂し気に見えました。

 

ふと思いました。

手術前、『足が治ったらサッカーをやりたい』と言っていた、その言葉の真意は、

『プロのサッカー選手を目指したい』という意味だったのではないかと。

 

その国の子供たちにとって、

プロスポーツ選手になることは、“立身出世”  への道なのでしょう。

 

手術後の少年の足は、ボール遊びをするには十分といえる状態ではありましたが、

サッカー選手を目指すには不十分だったのでしょう。

そのことは、少年自身が一番よく分かっていたと思います。

少年の表情は、望みが絶たれたことを悟ったかのようでした。

 

もう一度言いますが、これは憶測です、真実とは異なるかもしれません。

事実として、

医師の処置は、少年の体の状態を確実に改善させたのです。

 

 

人が何かを求めるとき、そこには『理由』があると言いましたが、

『想い』があると言うべきかもしれません。

 

 

私の仕事は、一つは『痛みをとること』、そして『健康維持のお手伝いをすること』ですが、

それは、言い換えると『人の目標達成のお手伝いをすること』だと思ってきました。

(少なくても、そこに通じていると)

 

しかし、

『想い』を共有(共感)することが無ければ、

結果として、

人が進みたい『道』とは違う『道』の先を自分が見ていることに気が付かぬ、

そういう危険性もあるということです。

 

考えすぎですね

 

つきぐっちゃん昼寝

良い運動です

いわゆる “準備運動” というものについて、思うところがあるのでお話しします。

 

 

準備運動の最大の目的は、

ケガを防ぐことだと思います。

 

 

多くの人が、一番はじめに行うことは、

おそらく  “ストレッチ” と称する運動 ではないでしょうか。

 

でも実は、

『ストレッチ』を正しく行うことは、けっこう難しいのです。

それこそ、専門的に学んだ人でなければ、

さまざまな目的に合った効果的なストレッチを行うことは出来ないでしょう。

 

 

遡れば、小学校の体育の授業等において、

なんとなく見よう見まねでアキレス腱を伸ばした経験は、誰にでもあると思います。

 

それはそれで、べつに悪いとは言いません。体育の先生の指導のもとで行うことですから。

 

でも結局、

大人になっても『準備運動』といったら、

だいたい同レベルのことが行われると思います。

 

 

この、なんとなく『ストレッチらしき運動』は、

『ケガを防ぐ』という目的のために、『最初に行う事』としては適していません。

 

なぜなら、

体が温まっていない状態で、筋肉(腱)を機械的に伸ばしているからです。

下手をすると、この『ストレッチらしき運動』でケガをしてしまう可能性もあります。

(十分起こり得ることです)

 

 

筋肉を『ほぐす(柔らかくする)』ことと、『のばす』ことは違います。

 

たとえば、

身体の可動域を広げるために『のばす』としても、

その前に、『ほぐす』ことが必要です。

 

そして、『ほぐす』ために必要なことは温める事、

温めるために効果的なことは、

心拍数を少し上げることです。(少しです)

 

 

そこで(前置きが長くなりましたが)ひとつ良い運動をご紹介します。

 

 ↓クリックすると拡大できます

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この運動は、1分も行えば十分です。

けっして、大きく素早く動いてはいけません。(言うなれば、準備運動の準備運動ですから)

 

これだけで、体全体が『ゆったり』して、温かくなってくるはずです。

 

さらに、もうひとつ良いことに気づくかもしれません。

重心が下がることです 😎  是非お試しを

 

 

たぶん年内最後の投稿となります。

良いお年を

 

つきぐっちゃん昼寝

1986

先日、かたずけモノをしていると、古い釣り具が出てきました。

それは、自分が中学1年のとき(37年前)に買った『リール』でした。

 

リールというのは釣糸を巻いておく道具ですが、

そのリールは、釣竿とセットで1000円ほどで売られていたモノでした。

 

釣り具というものは、高いものでは数万円~数十万円、

釣竿とセットで1000円前後というのは、いちばん安物の部類です。

 

そして、そのリールも、たしかに安物なのですが、

現在、釣具店で見る同程度の値段のモノと比べて、何か異質なものを感じました。

 

 

まったく飾り気のない外観と、

(小さい割には)持ったときに感じる『重さ』、

何十年も昔のクルマを見ているような・・・

 

すぐに思いました、『まだ十分使える、むしろ使ってみたい、面白そう』と、

 

 

昔と今とで、お金の価値が違うとしても、

1000円前後という値段が最安値の部類であるということは変わりません。

しかし、ハッキリいって、

そもそもの、モノづくりのテーマのようなものが、現代の安物とは違うように思えたのです。

 

なんと言いますか、

『限られた予算の中で、その道具が備えるべき最低限の機能性には抜かりが無い』という感じです。

また、(安物なりに)道具として使い続けられる、という前提があるように思います。

 

ここ最近の “釣りブーム” の中で、安物の釣り具というものは、釣りをやったことが無い人が特に気まぐれで購入し、一回きりで興味が失せて、そのまま釣り場に遺棄されることも少なくありません。

つまり、半ば『ゴミ』になることが前提で、だからこその安物であり、

それを売る側にとっても、売れさえすればいいのかもしれません・・・

 

 

その古いリールを暫くのあいだ眺めていると、

最後に、強烈なモノを発見しました。

とても象徴的で、

ひょっとすると、最初に感じた『異質さ』の正体なのかもしれません。

 

それは、『MADE IN JAPAN』の文字でした。

 

 

日本人にとって、

身のまわりにある多くの物が『メイド イン ジャパン』だった時代、

(安物の釣り具でさえも)

それが当たり前だった時代があったのでした。

 

madeinjapan

現実の世界

アメリカのニューヨークで、

パレスチナ人のデモ隊とイスラエル人のデモ隊が、道路を挟んで互いを非難しあっていたそうです。

(彼等は移民でしょうから、正確に言えば、皆アメリカ人ですが)

 

インタビューを受けたパレスチナ人の女性は、

『イスラエルが虐殺を行ったから、ハマスが生まれた』と言っていました。

このパレスチナ人女性は、ハマスの行った “テロ行為” を支持しているわけではありませんが、元をたどればイスラエルの行いに原因があると主張しているのでしょう。

 

 

直接の当事者ではなく、

また、異なる民族間の長い歴史について、大して知識を持たぬ者が、『対立を辞めろ』『報復を辞めろ』と言うのは簡単なことです。

しかし、そこには想像力が必要です。

 

報道されている事実だけでも、

多くの民間人が、武力行為の巻き添えになっていることは分かります。

 

それが、『もしも自分の家族だったら』という想像が必要だと思うのです。

 

というか、それは想像を絶するほどの悲しみと、そして怒りでしょう。

 

 

かつて、(随分むかしに見たことで、記憶が薄れていますが)

広島と長崎で毎年行われる、原爆の犠牲者を追悼する行事において、

(広島か長崎か忘れてしまいましたが)

アメリカ軍の関係者が慰霊碑に献花を行ったとき、

一部の被爆者と遺族が『ゴー、ホーム』と連呼し、さらに数人の男性が、供えられた花輪を足で踏みつけたのでした。

その光景がテレビで放映されていたのを見た時、私は衝撃をうけました。

 

この時も、もし私に想像力があれば、受け止め方は違っていたかもしれません。

 

 

ロシアとウクライナの戦争についても同じことですが、

紛争は、いつかは必ず終わるでしょう、

仮に、将来ふたつの国の国交が、表向きは回復したとしても、

家族を失った人たちの悲しみと怒りが消え去るわけがない、と思います。

 

国際社会の中で “テロリスト” と認識されている人々も、

元々は、そうやって生まれてくるのかもしれません。

 

 

とにかく今も、取り返しのつかない『分断』が起こっています。

だから、戦争をしてはいけないのです。

 

つきぐっちゃん昼寝

『私に隙あらば・・・』

むかしから、見るたびにモヤモヤする『とある光景』があります。

 

なにかと言いますと、

 

いわゆる『武術の達人』が、弟子を相手に、“技” の解説などを行うとき、

弟子は、師匠の技に、あっさりと掛かってしまうことが多いのですが、

“弟子”というものは往々にして、“すごい先生” の弟子であることにステータスを感じているので、

師匠の“神技” を一緒に再現することが、半ば無意識に当たり前になってしまい、

なおかつ未熟なので、師匠に対する“忖度” があからさまに見えてしまうのです。

 

 

先に言っておきますが、

わたしは、現代においての『武術』というものの価値について一定の考えを持っており、

それは、とても多面的な価値観であり、

例えば、病気によって往年の能力を失っていたとしても『すばらしい達人』といえる人が存在することを認めます。

 

それを踏まえた上で、

弟子は師匠に対して、余計な気遣いをすべきではないと思うのです。

そこには信頼が必要です。

 

 

実際に目の当たりにしたケースの話をします。

 

ある先生とお弟子さんが模範演武を始めました。

お弟子さんは、先生の手に触れたとたんに、自由を奪われたかのように「ウッ」っと軽く呻いて身体を硬直させました。

ところが、

先生は、初めに“ダメな例” を示そうとしていたのでした。

つまり、まだ本気で技をかけていなかったのです。

 

先生は達人ですから、たとえ本気でなくても未熟な弟子には技が掛かってしまったのかもしれませんが、

あきらかに、先にも述べた『師匠の“神技” を一緒に再現することが、半ば無意識に当たり前になってしまい、』が見て取れました。

 

この時のお弟子さんの反応が本物かどうか、

確かな事は、結局本人にしか分かりませんが、

師匠の技が効いていないのに『効いたふり』など絶対にしてはいけないと思います。

 

 

この時のやり取りが、どのように続いたのかというと、

先生は、こう言いました。『これだと(技は)かからないんですが、(-_-;) でも、こうすると・・・』

お弟子さんは、先ほどよりも苦しそうに呻きながら、床にしゃがみ込んでしまいました。

 

 

私の見立て通りに、お弟子さんの忖度があったとしても、私は、この先生に限っては、その実力を疑うつもりはありません。

そのような一面的な事では推し量れないほど、

武術を実践することの価値は底知れないと知っているからです。

もちろん、私個人の価値観です。

 

myoudaitemple

悲しいとき~

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海で魚釣りをする人にとって、非常にポピュラーな釣り場のひとつに、

いわゆる『漁港』が挙げられると思います。

私自身も、地元の愛知県岡崎市から近い蒲郡市の漁港で釣りをします。

 

 

漁港というものは、

主に漁業のために整備された場所であり、自治体や “漁協”(組合)によって管理されている場所です。

 

 

そのような漁港が一般人の立ち入りを禁止していたとしても、

基本的には、あたりまえの事と言えます。

 

しかし、

多くの漁港では、(全くの無制限ではありませんが)一般の釣り客の立ち入りが黙認されているのが現実ではないでしょうか。

 

黙認と言いますのは、

厳密に法律等に照らした話は別として、実際には(ごく一般的な?常識的な?)“人々の良識的な行動” に依存するかたちで、

防波堤などの施設への部分的な立ち入りと、そこで魚等を採取することに対して、

特に罰せられることが無い状態を指します。

 

 

人々の良識的な行動とは、

たとえば、

・ゴミを持ち帰る(持ってきた物をその場所に残さない)

 

・『立ち入り禁止』と明記されている場所に立ち入らない(漁業関係者に迷惑をかけない)

 

・小さな魚は逃がす等、魚を採りすぎない(水産資源の保全)

 

など・・・

※( )内に書いたことは、根底に求められる意識です。

 

 

そのような良識的な行動が逸脱されるようなら、

漁港は、『釣り禁止』あるいは『立入禁止』となってしまうでしょう。

 

 

 

考えてみれば、

海水浴場にゴミ問題があったとしても、

そもそも沢山の人が訪れることで成り立っている以上、閉鎖される事は考えにくいのかもしれませんが、

漁港は本来、沢山の人が釣りをするための場所ではないのですから。

 

 

とはいえ、それって余程の事なんじゃないの? と思われるかもしれませんが、

残念ながら、釣り禁止・立入禁止の場所が増えているのが現実です。

 

ちなみに、事故が起こった場合も即立入禁止です。

この場合は、海水浴場だって遊泳禁止になりますよね。

 

 

常々、理解に苦しんでいる事として、

釣りが好きな人は皆、

“マナー” を守ることが、釣り場を守ることだと分かっているはずなんですが、

しかし、

釣り場に落ちているゴミは、まぎれもなく釣り人が置いていった物だと分かります。

なぜなら、

それらが、釣り具のゴミだからです。(包装紙・ビニールなど)

 

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説明十分

あるところに『Aさん』という人がいました。

 

Aさんは、こう言いました。

『私は、いろいろな事を考えるスピードが遅くて、物忘れも多いです。』

 

『忘れても、大して問題にならない事なら気にしませんが、大切な事はメモしておかないといけません。』

 

『私に頼み事がある時は、必ずメモしてください。メモしてあることは、必ずその通りにやります。書いてない事はやりません。』

 

『その際、たとえ毎日メモしてある事でも、その日にメモしてなければ、その日はやりません。書き忘れかな?と思うかもしれませんが、そうではないかもしれないし、他の人なら気を使って融通をきかせるような事でも、私は、そういうことが出来ないんです。だから、大切なポイントがあったら、必ず書き添えてくださいね。』

 

 

(補足)Aさんは、慣れた事なら、人並み以上に早く正確に行える人でもあります。

 

 

Aさんは “能力の高い人” だと、私は思います。

先述した通り、

Aさんは、ご自身の能力(思考の特徴など)を自覚された上で、

大きな問題(特に他者との関係において)が起きないように、周囲に対しても前もって注意喚起をしてらっしゃるからです。

 

逆に言えば、

私なら、絶対に間違いがあってはいけないような大切な事を、Aさんには頼みません。

(Aさんに限らず、他者には頼みません)

だれが見ても確実に遂行できるような『説明書き』を書くことは、非常に難しいことだと思います。

 

 

Aさんに対して『それぐらい言わなくても分かると思って・・・』という考えは通用しません。

『他の人なら気を使って融通をきかせるような事でも、私は、そういうことが出来ないんです。』と、

ちゃんと説明されていますから。

 

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