憤りをチカラに変えてゴチャゴチャ言う

世界中が共通の問題意識を持つ、ある事柄について、

何年もの間、“専門家”たちが研究し、議論しても、

尚、その事柄について、

不明な点と、意見の対立と、予測の誤りと、状況の変化が存在しつづけている場合、

 

果たして、その事柄に対しての現在の向き合い方は正しいと言えるのか(?)

 

“専門家”ではない人間の多くが、

“専門家”の研究成果を頼りにしたとしても、

 

果たして、その研究成果とは“どんな結果”に対しての成果なのか(?)・・・

 

“渦中”の事柄について、

混迷が続けばつづくほど、

そこには当然、苛立ちと不安があるでしょうけど、

 

見方を変えれば、

いままでのようには、“専門家”を頼りにする必要(必然性?)が無い

ということでもあるのではないでしょうか。

(言葉を選びすぎて、解りずらい話になってしまってスミマセン)

 

とにかく、見方を変えれば新しい道が見え、

その方向に進むことによって、

それまでは予想し得なかった良い状況がもたらされるということです。

 

たとえば(あくまでも例え話)、

人が生きていく上で、自分の健康を維持・修復しようとするとき、

“医学”にのみ頼って生きるよりも、

もっと多くの道があるはずです。

そこには多くの希望があると思っています。

 

もっとも、それは“医学”の概念が拡張されるだけの話かもしれませんけどね。

つきぐっちゃん昼寝

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ほんとうの話

ぎっくり腰・寝違え・捻挫・筋肉痛など・・・

筋肉の繊維や周囲の組織の損傷による痛みについて、

それが治っていく『過程』をどのように認識すると良いか、

ザックリと説明してみたいと思います。

 

1、腫れる

炎症がおこっているからです。

炎症は治るための反応です。炎症が起こらなければ治りません(重要)

血が集まって栄養を運んできたり、老廃物を運び去ったりしています。

 

2、痛む

“痛み”の元になる物質が出てきたり、神経が圧迫されたりして痛みます。

でも、痛いからこそ患部を保護することができます。

もしも痛みが無かったら、損傷している場所に平気で負担をかけてしまうでしょう。(それでは、治るものも治りません)

 

3、冷やすと、どうなる?

血流が少なくなり、腫れがひいて、痛みが和らぎますが、

炎症は進まず、痛みは感じにくくなっているだけです。

でも、痛みのせいで夜眠れないと、そもそも治すための体力を回復することができません。なによりも、体をしっかり休めるために、痛みを和らげることは必要だと思います。

痛みが弱まったように感じても、治ったわけではありませんから、患部を保護するように努めなければいけません。

 

4、安静にする?

はっきり言いますが、安静にするのが一番です。

でも、“絶対安静”なんて日常生活の中では無理だし、

何かしらの処置によって痛みが緩和されると、よけいに無理ですよね。

それでもやっぱり、安静にするのが一番です。

 

5、マッサージは有効か?

正しく行えば、治癒を促し、痛みを緩和させることができます。

“正しく行う”とは、手技を施す目的・手技を施す時期・手技を施す部位・手技の圧力、が適切であるということです。

また、患部を動かすことについても同様のことが言えます。

正しく行えば、患部(関節)の動きが悪くなることを防げます。

 

※厳密な意味での“マッサージ”とは違いますが、誰だって痛い所を手で擦ることはありますよね、

これって本能だと思います。(それが悪いことであるはずがないと、個人的には思っています。)

 

6、治る(治癒)とは

けっきょく“治る”ということは『自然治癒』以外にあり得ません。

どんなケガでも病気でも、もともと体に備わっている“仕組み”によって治るのです。

ただし、対処の仕方によって、治りが早かったり遅かったり、

回復後の状態が違ったりすることはあります。

 

どんな手技療法でも治療行為(医療)でも、

『自然治癒力』を促すための行為であるべきだと思います。

そういう視点で見た時に、見えてくるものも有ると思います。

(どう考えても、体を傷めつけているとしか思えないような“治療”も存在しますから、世の中には)

つきぐっちゃん昼寝

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葉っぱと根っこの話

『陰・陽(いん・よう)』という概念についてお話します。

 

これは“東洋医学”にも応用される根本原理の一つですが、“陰陽論”自体は“医学”ではありません。

 

『陰・陽』とは一つの“言い方”であって、

要は、“相反する性質”とでも言いましょうか(言葉が適切ではないかもしれませんが)

 

注意すべきことは、

『陰』と『陽』の分類は、相対的であるということです。

 

『陰』は『陽』に対しての『陰』であり、『陽』もまた、『陰』に対しての『陽』であるということです。

“程度の違い”と言った方が良いかもしれません。

 

つまり“絶対的な”『陰』と『陽』が存在するわけではなく、

“互いに反対側の概念があって、はじめて存在する概念”です。

だから、『陰』も『陽』も単独では存在し得ません。

この関係を『互根(ごこん)』とも言います。

 

現実世界において、これに当てはまる事柄は、挙げれば限がありません(『高い・低い』『濃い・薄い』『速い・遅い』など)

···というか、あらゆる“モノゴト”の裏に必ず『陰・陽』の概念は存在しています。

 

また、相対的であるということは、『陰』と『陽』にハッキリとした境界線は無く、

グラデーションのような、ぼやけたイメージで捉えなくてはいけません(これも非常に重要です)

 

さて、あるモノゴトについて、そこには本来『陰・陽』が同時に内在しているとしても(逆に言えば『陰』も『陽』も無いとしても)

人がその概念を持たなければ、

あるモノゴトは、その人にとって、“一つの性質のモノ”に確定されます。

『確定』は『停止(死)』であり、『陰・陽』という根本原理を失ったモノです。

 

人が意識を向け続けるモノが『実(じつ)』であるなら、その裏には『虚(きょ)』にあたるモノが存在しています。(※この『虚・実』も『陰・陽』の一側面です)

そのことを思い起こすだけで、

『確定』されたモノゴトは『陰・陽』の原理を取り戻し、

生命力(氣)を取り戻すことになります。

 

これは“痛み”や“苦しみ”にも当てはまります。

けっして気休めではありません

 

 

つきぐっちゃん昼寝

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最大の力

『市中感染(しちゅうかんせん)』という言葉を聞いたことがあるでしょうか?

 

ふつうに生活していて感染症にかかったら“市中感染”

という認識で結構です(十分です)。

病院など医療機関で感染したら“院内感染”といいます。

 

市中感染が起こるという事は、

つまり、この2年ほどの間に経験してきた状況が、それに当たります。

 

いま話題になっている“変異株”とやらが、

すでに“市中感染”を起こす状況にあるのかどうか、

 

これを、単に言葉の解釈の問題として考えるのは、とても愚かなことだと思います。

『~とは考えていない(認識していない)』

という言い回しで述べられる見解には注意が必要です。

 

ひとつ思い出したことがあります。

もう何年も前から、『南海トラフ』を震源とする大地震について、

「いつ起こってもおかしくない」と言われていながら、

各地で地震が起こった時には、

きまって、“南海トラフ”との関連性や影響については否定されています。

(私個人は、実は、もうそれほどの大地震が起こる可能性は低いのではないかと思っています)

 

いまの世の中には情報が多すぎて(事実関係も個人の考えも)、

しかも真偽が定かではない情報も多い、

 

そんな中でも、明らかに真実だと認識できる事実もあれば、

明らかに“合理的ではない”情報が提示されることもあります。

 

もし、いまの世の中の状況に、

どこか漠然とした“ねじれ”“違和感”を感じるとしたら、

少なくても、それは正しい感覚だと思っています。

 

話が思いっ切り変わるようですが、

『免疫力』を高めましょう。

免疫力を高める方法は、世の中に溢れています(しかもタダで)。

“楽しい”方法もあれば、“つまらない”方法もあります。

でも、どんな方法でも一年つづければ必ず効果があります。

実践するか、しないかです。

 

そして、実践するために必要なのが、

免疫力を高める『理由』です。(なんのために免疫力を高めるのか)

つきぐっちゃん昼寝

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ザ・ビーチ

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岡崎市でも、あちこちの水辺で『カワセミ』の姿を見かけます。

あざやかな青色と独特の飛び方で、すぐわかりました。

日本で冬を越す渡り鳥なんだそうです。

(ケータイのカメラで撮影するのは無理)

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・・・ということは

世界中を巻きこんだ“ウイルス騒動”が始まったとき、

“専門家”は『パンデミック』という言葉の定義を強調して、

「現状はパンデミックではない(あてはまらない)」と言いつづけ、

気がついたときは、

ふつうに「パンデミック!」って言っていました。

 

この感じは、過去にも経験したような気がします。

(なんだったかな― 、思い出せませんけど)

 

ある立場の人たちが、“いじめ”を「“いじめ”にはあたらない(“いじめ”とは認識していない)」って言うのと似ている気もします。

(この場合は、最悪の事態が起こった後で、『過去形』で言うことが多いですが)

 

ということは、

ある種の“ワード”が飛び交い始めたときは、その時点では既に、最悪の結果になる可能性が高い、

ということを、経験値として持っておいても良いのでしょうか。

 

そんでもって今、

新たな“変異株”出現の話題・・・

まあ、それはそれ、事実なら受け入れるしかないのですが、

 

国内での最初の陽性者発覚を受けてからの、

その対応、

そして二例目の報告、

 

率直に言って、耳をうたがった。

 

つきぐっちゃん昼寝

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ふと、思う

どこで見たのか、聞いたのか、忘れてしまいましたが、

むかし観た映画か漫画かの、あるシーンの中で、

登場人物『A』の前に、別の人物『B』が突然立ちはだかります。

 

Aは言います、『お前に用は無い』

Bが返します、『そっちに無くても、こっちには有る』

 

BはAに対して恨みがあるのですが、

Aはそのことを認識していない、という状況です。

 

自分には敵が多く、スキがあれば自分を殺そうとする人間は山ほどいる、

そう認識している人がいるとすれば、その人は自分の周囲の状況に常に注意をはらうことでしょう。

 

その人にとって、『身の安全』とは常に脅かされているものですが、

本人がそれを自覚している限り、自主的に確保できるものでもあります・・・

 

はて? 平和な日常を切り裂いて、とつぜん迫りくる通り魔的な犯罪・事故・災害・・・

そういうことを常に意識し続けてたら疲れますけど、でも、

先に述べた、自分の身の安全を脅かすものの存在を認識してる人と、

そんなこと身に覚えのない人と、

身の安全を脅かすものが、事件だろうと、事故だろうと、災害だろうと、病気だろうと・・・

 

程度の違いこそあっても、『護身』という意識に少しも違いはないと、

ふと、思った

zen

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『意』と『気』と『力』の話

高岡英夫さん(運動能力や武術の極意などを研究されている方)が、

著書の中で述べられている事を思い出しました。

要約すると、

(ある種の凶悪犯罪者について)

やっている事の善し悪しは別として、

人間の能力的には、精神的・肉体的に“極まった”状態である(その裏には、『身体意識』(※高岡氏の提唱する概念)が最も悪い方向に積み上がった状態がある)

 

私なりの受け止め方で話すと、

『(なんらかの理由で)エネルギーが悪い方向に高まって爆発した』というイメージです。

 

つまり、逆に“善い方向”に働けば、何か『偉業』を成していた可能性もあるということになりますが、

 

一人の人間の『行動原理』というものが“方向性”だとすると、

具体的に行う事柄の大きさ(重大さ)は、そこに込められる“エネルギー”の大きさで決まるのかもしれません。

 

問題なのは、脆弱な“構造”の中に、意図することなく、大きな質量のものが溜め込まれることだと思います。

 

そこには、本当に自分でコントロールしていることが一つも無く、

“自由”も無いと思うんです。

 

だから、人には『意で気を導き、気で力を導く』練習をすすめます。

太極拳にもそういう力があります。

つきぐっちゃん昼寝

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