『陰・陽(いん・よう)』という概念についてお話します。
これは“東洋医学”にも応用される根本原理の一つですが、“陰陽論”自体は“医学”ではありません。
『陰・陽』とは一つの“言い方”であって、
要は、“相反する性質”とでも言いましょうか(言葉が適切ではないかもしれませんが)
注意すべきことは、
『陰』と『陽』の分類は、相対的であるということです。
『陰』は『陽』に対しての『陰』であり、『陽』もまた、『陰』に対しての『陽』であるということです。
“程度の違い”と言った方が良いかもしれません。
つまり“絶対的な”『陰』と『陽』が存在するわけではなく、
“互いに反対側の概念があって、はじめて存在する概念”です。
だから、『陰』も『陽』も単独では存在し得ません。
この関係を『互根(ごこん)』とも言います。
現実世界において、これに当てはまる事柄は、挙げれば限がありません(『高い・低い』『濃い・薄い』『速い・遅い』など)
···というか、あらゆる“モノゴト”の裏に必ず『陰・陽』の概念は存在しています。
また、相対的であるということは、『陰』と『陽』にハッキリとした境界線は無く、
グラデーションのような、ぼやけたイメージで捉えなくてはいけません(これも非常に重要です)
さて、あるモノゴトについて、そこには本来『陰・陽』が同時に内在しているとしても(逆に言えば『陰』も『陽』も無いとしても)
人がその概念を持たなければ、
あるモノゴトは、その人にとって、“一つの性質のモノ”に確定されます。
『確定』は『停止(死)』であり、『陰・陽』という根本原理を失ったモノです。
人が意識を向け続けるモノが『実(じつ)』であるなら、その裏には『虚(きょ)』にあたるモノが存在しています。(※この『虚・実』も『陰・陽』の一側面です)
そのことを思い起こすだけで、
『確定』されたモノゴトは『陰・陽』の原理を取り戻し、
生命力(氣)を取り戻すことになります。
これは“痛み”や“苦しみ”にも当てはまります。
けっして気休めではありません