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制限と無制限
『総合格闘技』というものがあります、
一般的には、『打(だ)・投(とう)・極(きょく)』※(打撃・投げ技・関節技)の要素を含み、
『競技』としての制約の中で、限りなく“なんでもあり”に近い闘いの様式とされるものです。
総合格闘技は『種目』であって、本来は総合格闘技という『流派』ではありません、
空手、柔道、柔術、ボクシング、レスリング、その他、格闘技以外のスポーツ出身者でも、
総合格闘技の試合に出場することは可能です。
その際、多くの選手は“なんでもあり”の試合を想定した上で、
自分にとって不利な要素を、『足し算的』に強化しようと努める場合が多いのです。
例えば、“柔道家”がパンチ・キックなどの打撃に対応しようとしたり、
“空手家”でもボクシングのテクニックを学んだりします。
ここで、ある疑問が浮かびます。
ボクサーが、投げ技・関節技・キックを想定したトレーニングを行うのは、仕方のないことかもしれませんが、
空手や柔道というものは、そもそも“なんでもあり”の状況に対応するために生まれたものではないのか?
ということです。
もちろん、空手・柔道に限らず、あらゆる『武道』は、“なんでもあり”の状況、言い換えますと、
『あらゆる局面に対応する』ために存在します。
そして、『あらゆる局面に対応する』ということは、『なんでもできる』ということではありません。
突然ポケットから刃物を取り出して向かってきた相手を、空手家が“正拳突き”で倒さなくてはならない、という『ルール』はありません。
場合によっては、相手が不審な動きをした段階で、その場から逃げることもあるでしょう。
ただし、ほんとうに『なんでもあり』の状況下においての話です、
総合格闘技の試合において、逃げる事は許されませんし、凶器を使用することも許されません。
『あらゆる局面に対応する』と言いましたが、
『対応する』とは、限られた能力であっても取り得る選択肢は無限に存在するということです。
そして、選択肢が無限に存在する以上、『こう来たら、こうする』というパターン別のテクニックを『足し算的』に修得することは出来ません。
そうではなく、『すべての土台となる一つの極意』を『引き算的』に追求する道が求められます。
以前テレビ番組で、合気道の開祖である植芝盛平さんのお孫さんが、こう言っていました、
『夜道を歩いていて、ふとイヤな感覚がしたりして、この先の物陰に誰か悪い人が潜んでいるかもしれないと、
前もって注意する、そういうのが合気道だと思う』と
武道とは、そういうものです。
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立花さん
立花 隆(たちばな たかし)さんの『知の旅は終わらない』を読み終えた矢先に、
立花さんが亡くなられていたことを知りました。
もし人間に “知識欲”というものがあるなら、
この方の人生の原動力になったのは、まさしくそんな欲求だったのかもしれません。
何かの専門家であろうとするわけではなく、
純粋に思索の赴くままに、さまざまな分野の知識に触れてこられたわけです。
知識を吸収するわけではなく、
知って、考えて、さらに知ろうとされてきたわけです。
でも、きっと、『死生観』というものが重要なテーマとして、
すべての根底にあったのだと思います。
ずいぶん長いことガンを患われていたことは知っていました。
本当の事は、他人には絶対にわからないけど、
でも、ご本人がどんな気持ちで『死』に臨んでいったか想像がつくんですよね(著書を読むと)、
さて、私が立花隆さんに興味をもったキッカケは、というと、
『猫ビル』と呼ばれる、立花さんの事務所です。
『猫ビル』で仕事をしているという、そのセンス、ただそれだけでした。
でも、もし他の人の事務所だとしたら、けっして、良いとは思わなかったでしょう。
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市民魚釣り場
あまり知られていないようですが、
『吹矢橋』より上流の約2.5キロ区間は、市民魚釣り場として開放されているのです。
間に『竹橋』、『乙川大橋』、『御用橋』をはさんで、仁田えん堤までです。
※ ↓ 画像は『竹橋』付近
※『吹矢橋』より下流 ↓ (こっちの方)は釣り禁止です。
また、いまの時期はアユ釣りも解禁されています。(アユ釣りは有料です)
中学生の時、商業高校の前あたりで、偶然にもアユを釣り上げた事があります。
(アユは友釣りなど専門の仕掛けじゃないと、ふつうは釣れないんですけど)
※ ↓ この辺よりもう少し上で
上記の区間以外での釣りは遊漁券の購入が必要ですが、
詳しくは、市役所に問い合わせるとよいと思います。(中山間政策課だったかな?)
人もいないし、釣れても釣れなくても楽しいと思います。
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あってはならぬ事
↑ 赤枠で囲った部分に、“施術ミス”による『ろっこつ骨折』の事例について書かれています。
↑ 図のようなストレッチを行った際、
『膝を胸に近づけるときに大腿前面が肋骨(ろっこつ)を圧迫することなどが原因と思われます』
と書かれていますが、
無論、圧迫しているのは『施術者』です。
うつ伏せの状態の患者さんの背中を“押して”起こる骨折と、何ら違いはありません。
施術者が、過度な力をそうと認識せずに(できずに)かけているのが目に浮かびます。
施術による事故は、絶対に『あってはならぬ事』です。
しかし、人間は必ずミスをします。
人間は必ずミスをするという前提で、絶対に事故を起こさないためには、
ミスをしても事故につながらない事をすれば良いのです。
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すごく難しい話
床の上に100kgのバーベルが置いてあるとします。
それを、『どんな姿勢でも動作でも良いので、床から数センチ持ち上げてください』、
と言われたら、実際にできるかどうかは別として、やり方を想像できないということは無いでしょう。
いわゆる重量挙げの選手ではなくても、『力持ち』の人なら出来てしまうかもしれませんし、
できない場合でも、どうしたら出来るようになるのか想像することはできると思います。
また、100mを10秒台で走れと言われたら、
これも同じようなことで、少なくても『走る』という動作は誰でも出来ると思います。
これらは、『できる・できない』の違いが、どんな能力の違いなのか?、比較的わかりやすい『目に見える身体能力』だといえます。
それに対して、
ある茶道の先生が、完全に正座した状態から一挙動で(ノーモーションで)立ち上がったり、
ある舞踏家が、他の部位を微動だにせずに手首から先だけを動かしたり、
これらは、一見しただけでは、その能力の特殊さが理解しにくく、
多くの人は、実際にやってみて初めて、『真似できない』ということに気づきます。
さらに、なぜ出来ないのか? どうやったら出来るのかを想像できないと思います。
つまり、『できる・できない』の違いが、どんな能力の違いなのか?わかりにくい『目に見えない身体能力』です。
『目に見える身体能力』は、そのトレーニング方法も明解で、多くの人が同じように身につけられますが、
『目に見えない身体能力』は、『極意』という言葉に置き換えられ、その構造自体を明解に説明することが困難な場合が多いため、そのトレーニング方法も明解ではなく、多くの人が同じように身につけられません。(合気道などの『合気(あいき)』という概念がそれにあたると思います)
『目に見えない身体能力』=『極意』を修得するための道筋として、
一定の条件(制約)の元で要求される事を達成するという方法があります。
達成するためには『極意』の修得が不可欠であるため、『ごまかしがきかない』という意味では、確実に『極意』に行き着くというわけです。
その一定の条件(制約)が『型(形)』というものです。
逆に言えば、極意を持つ人の型と、そうでない人の型は、一目で分かります。
太極拳も極意を修得するための型です。