最終回「覚書」

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筋肉に「コリ」があると痛いですよね、

それを「硬結(こうけつ)」と呼んだり、血流の問題から『発痛物質』が生じて痛みの原因となるとか、

たしかに、そうなのかもしれませんね。

そのぐらいのことなら、私だって言えますけどね、

でも、そんな話を聞きたいわけじゃありませんよね、ましてや医者でもない人間から、

(私はそう思うのです)

 

 

私は、だいたい次のようなことを言います

「気の流れが滞っていましてね、気が滞ると血(けつ)が滞るのです、・・で滞っているところは痛いんです」

「例えるなら、水の流れが障害物で妨げられているので、その障害物を探して、どかしていきましょうかね」とか、

「気を流すために、ツボを刺激していきましょう」とかね、

私が言うべきは、こういう事だと、現時点では信じていますし、こういう考え方が好きです。

 

 

とにかく、『気』という言葉から離れたくないんです。

なぜかというと、けっきょく人は「元気」になることが一番大切だと思うからです。

当たり前だと思うかもしれませんが、私が言う『ほんとうの元気』とは、例えば次のような事です、

どんな病気の人でも、ジャンボ宝くじで一等が当たれば『一瞬で元気になります』(想像してみてください、想像は自由です)

 

 

病気が一瞬で治るなんて言ってません、でも一瞬で元気になるはずです。そして、そこから全てが始まります。

 

 

人はだれでも、自分が喜びを感じることを実践し、ある時はそれに向かって義務を果たし、日々精進する中で、湧き上がる「気」を糧として生きているものだと信じています。究極的には『自己実現』ということでしょうか。たとえどんな時代であってもですね(※だれにでも受け入れられる考えじゃないことは承知しています)

もちろん、人間は生きているだけで十分幸せという考えだって素晴らしいと思います。

 

 

いずれにしても私は、『朝起きた時から、すごく調子いいの』とか『~さんがすごく元気になっていってる』とかいうお言葉に一番価値を感じています。

 

 

さて、メインテーマが整ってきたので、今回の記事をもちまして一旦締めくくりたいと思います。

あらためまして、明大寺マッサージ院の『大川 たろう』です。

私は、あん摩マッサージ指圧師です。(国家資格ですよ)それ以上でも以下でもありませんが、『もみ屋』といわれても結構です、むしろしっくりきます。

そして、提供したいのは「癒し」、願わくば「その人にとっての本当の癒し」につながる施術です。

ありがとうございました。(完)

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等身大のポリシー

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私は、虫が苦手です(全部ではありませんが)

たとえばゴキブリは苦手ですが、実際に目の前にいるときは当然として、想像しただけで、ちょっとだけ体が浮いたような(浮足立ったと言うんでしょうか)感じがして、通常よりも地面をしっかりと捉えることができなくなるのです。

この感覚は、前回の記事でもお話ししている「軸」というものを失った状態(「自分軸がゆらぐ」と表現しました)であります。

強固な「垂軸」から手を放してしまった状態ですね。

そして、ある時は、こんなことがありました、

突然、「自分軸がゆらいだ」と思って、立ち止まり周囲を見ると・・・

いたんですよ!(ゴキブリが)

このとき、わたしはゴキブリの存在を認識してはいませんでした、しかし、体はその存在を察知し、「違和感」をあらわした・・・

※過去の「オーリングテスト」や「三脈護身法」の話はここに通じてきます。※過去の記事はこちら

ゴキブリがいたのは偶然だといわれても仕方ないですけど、「自分軸がゆらぐ」感覚というのは私自身は明確にわかります。

その前後で、この感覚をもたらす要素はゴキブリ以外に無かったので・・・

なんかバカみたいなことを真面目に話してるようですが、

施術中に「ここ痛くないですか?」ってお聞きするとき、実はそこに触れながら、私自身が「自分軸がゆらぐ」感覚を感じているからなんです。ただし、私もプロですからね、そこにある筋肉の「コリ」ってものは、ちゃんと感じてます。※施術部位の根拠として積極的に挙げるなら、その点ですよ当然。

でもね・・・明確に「コリ」を触知してるときだけとは限らんのですわ、これが・・・

※手から感じることを軸でとらえるのは、太極拳の「聴勁(ちょうけい)」という技術に通じます。映画『燃えよドラゴン』でブルース・リーが空手家のオハラと対戦するとき、互いの手を合わせますが、このとき「聴勁」をつかっています。

まあ、とにかく自分軸がゆらいだ状態で、正しい手技は行えませんので、きちんと立て直します。

すると、気持ちがいいでしょう、もしも自分軸がゆらいだ状態のままやったら、手だけに力が入ってムチャクチャ痛いんですわ。

ちなみにですけど、一般的に「治療には、ある程度の痛みを伴う」という場合もあるでしょう、下手だから痛いんじゃないですよ、きちんとした理由があってのことです。

それでもウチはやりません、絶対に痛い施術はしません、痛くしなくても治療はできますし、できないことはやりません。(治療って言葉は使えないんですけどね)

(今回はここまでです、ありがとうございました。)

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我おもう故に

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ちょっと想像してみてほしいのですが、

背中に「物干し竿」のような棒を突っ込まれた状態(上から下に串刺しのように)で、「何か運動をしなさい」といわれたら、

絶対にやりにくいですよね、

体の軸を意識することは、多くの分野で「もてはやされている」のに、軸を意識すると、かえって上手くいかない・・・

そうだとすると、その理由は、体の中に「一本の軸」しかないからだと思います。

過去の記事で「体軸」と「垂軸」という概念をお話ししましたが(※記事はこちら) この「体軸」と「垂軸」が一致してしまっているのです。

「垂軸」には重さがありますから、これが「体軸」とくっついていたら、動きにくくて当然です。

それでは、「体軸」と「垂軸」の良い関係を一つご紹介します。

電車に立ったまま乗っているとき、どこにもつかまっていないと、不安定ですよね?

でも目の前に金属の棒があって、それにつかまったら、その瞬間から、どんなに電車が揺れていても、かなり自由に動くことができます。(人が近づいてきても、すぐに身をかわしたり、一本足で立つこともできるでしょう) そして精神的にも、「安心」を感じるはずです。

「つかまっているんだから当たり前」なのではありません。

棒につかまっているとき、その棒がその人の「垂軸」となり、「体軸」は「垂軸」から解放されながらも、「垂軸」に支えられているので、自由に、しかも安定して動けるのです。※ポールダンサー(知ってます?)のような

その証拠として、このような感覚は、実際に棒につかまらなくても、「つかまった想像をするだけで」発現します。

なによりも素晴らしいのは、そのような身体感覚(強固な「垂軸」に支えられた、自由な「体軸」)を持つときの心理状態です。(これはセットですね)

これこそが、その人にとっての体と心の基軸、「自分軸」というべき状態だと思います。

この「自分軸」は有るときと無いときでは、身体能力・感受性・行動原理などにも大きく影響します。もちろん施術家の施術にもです。

私も施術をするとき、この「自分軸」にのっとって行っているのですが、それが突然「ゆらぐ」瞬間があるんです。

そんなとき、「相手の人の何らかの問題に接触している」ことが多いと思っています。

余談ですが、「杖」は、ほんとうは水戸黄門のような長いやつが良いんですよ(上からもたれかからずに、胸ぐらいの高さで持つように)、「ノルディックウォーキング」も良いですね。

(今回はここまでです、ありがとうございました。)

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極意に通じる(2)

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日常生活で意識しなくても、重力(地球の引力?)は存在しています。

その力を体が受けるときの「中心」にあるのが「重心」で、その「重心」は、地球の中心軸までつづいています、これが「重心線」です。(「重心線」には一応、定義があると、過去の記事でお話ししました。)

ところで、さまざまなスポーツ・武術・舞踊・伝統芸・・・私どものような施術者も「体軸」というものを意識いたします。

この「体軸」というものは、動きの要ですが、機械に例えると、パワーを伝えるシャフトです。

でも「意識」ですから、その『形』は自由自在です。胴体よりも太かったり、糸のように細かったり、柔らかかったり硬かったり、左右に一本ずつあったり、上半身に有って下半身に無かったり、その逆だったり・・・(個人的には、色と質感はとても重要だと思っています。私の体軸は現在のところ金色の糸です)

そして「体軸」は常に体のなかを通ります、「体軸」ですから。(横になれば横向きです)

さきほど、体軸は「動きの要」パワーを伝えるシャフトであるといいました、では、パワーの源「発力の要」は何でしょう

それこそが「重心(線)」です。しかし、ここから先は、学問的な用語である「重心線」とは区別して、「極意」の話として、『垂軸』という言葉におきかえます。

「体軸」は常に体の中を通りますが、「垂軸」は常に地面(地球の中心から)に垂直です。そして「垂軸」にかかってくる「重さ(重力?単なる体重ではありません)」がパワーの源です。※超重要(筋肉の力をパワーとせず、パワーの伝達を補助するものとするのです)スタビライザーのような

ちなみに、人が「重心線」を意識しようとするとき、「体軸」と「垂軸」は一致している場合が多いのです。(いわゆる良い姿勢)

しかし、さまざまな分野で、要求される能力を発揮するためには、「体軸」と「垂軸」を分離させ、そして高度に相関させなければなりません。

(ちょっと長くなりました、もう少し「体軸」と「垂軸」について、またいつかお話しします、ありがとうございました。)

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極意に通じる

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日常生活のなかで、「重心」について意識することはあるでしょうか。これはバランス感覚の話とは違います。

バランス感覚とは、体に備わっている自律的な仕組みです。いかにバランスを崩そうとも、それを自動的に立て直そうとしてくれますが、個人の運動能力の限界をこえれば転倒します。

私がここでお話しする「重心」とは、意識的な話です。

※「重心線」という言葉がありますが、これは明確に定義されています(下の図のように)。しかし、百人いたら百通りの人間に厳密に当てはめる必要はありません。

重心線

この「重心線」のもつ意義としては、「体に負担をかけずに直立するための姿勢」とでも言いましょうか、意義としては重要なかんじがしますね。(重要かどうかは人それぞれですが)

でもね、体の中を調べても、一本の軸が出てくるわけではありません。

これは「意識」するかどうかの問題であり、「意識」であるからこそ、人によっては一本だけの線とは限らず、

更には、体の中を通るとも限りません。

(この続きで、体の「軸」について、またいつかお話しします、ありがとうございました。)

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小宇宙は宇宙(2)

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前回の記事のつづきで「オーリングテスト」というものについて話すつもりでしたが変更します、すみません。

オーリングテストについて解説されているサイトはこちら

健康ってなんだろう → それは自分の体が知る → 体に問うとは?

こんな流れで話をしてきたと思いますが、ここで本質的な話をしてみたいと思います。

心臓が自動的に動いていることに象徴されるように、生物の体は自動的な仕組みによって管理されています。(一定の状態を保つように)

それは意識によって左右されることのない無意識の領域の働きだといえます。だからこそ安全で、そして、そこから発せられる情報やサインは注目すべきであるといえます。

人間は本来、この無意識の領域を意識する必要などないのかもしれません、病気になれば体の方がサインをだしますから・・・

でも、意識を向けると面白いこともありますよ。例えばそれが、とてつもなく広大な領域で、あまりにも広大ですが、けっして触れられない領域ではないと感じられます。

(「意識してみる」ことについて、またいつかお話しします、ありがとうございました。)

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小宇宙は宇宙

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「三脈護身法(さんみゃくごしんほう)」というものを聞いたことはありますでしょうか。

首すじの脈(けいどうみゃく)2か所と手首の脈(とうこつどうみゃく?)例えば右側の合計3か所の脈を同時に診て、3か所がバラバラだと「24時間以内に生命にかかわる危険が訪れる」というものらしいです。(※脈というのは、心臓の動きの振動が血管を伝わったものですから、異なる部位で同時に診ても本来は一致しているわけです)

「ちびまる子ちゃん」で、おじいちゃんがまるちゃんに伝授するシーンがあります。

「生命にかかわる危険」というのは、身体的な障害にかぎらず、外から降りかかる災難の場合もあるそうです。つまり体が何かの予兆に反応してるってことです。不思議な話ですけど、「バタフライ効果」という現象を思い出しました。(※バタフライ効果の話は省きます)

でも、予知しただけだと、何をどう対処していいかわかりませんよね、ただ怖いだけで。

この護身法の真髄は、「ある方法」でバラバラの脈を一致させるらしいです。(どんな方法かは知りません、ひょっとして鍼とか?)

すると、なんと「迫りくる危機を退けられる」と・・・

例えばですけど、「心臓発作を未然に防いだ」とかなら解るような気もします、でも「外的な災難を退ける」ことはあり得るでしょうか。

私は、この話を否定したいわけではなく、すごく興味深い話だと思っているんです。なぜなら「体の状態が外がわの現実を変える」という話だからです。

(もうひとつ別の話で、「オーリング」というものについて、またいつかお話しします、ありがとうございました。)

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からだにきく

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私にとって健康とは何か?といいますと、むりやり言葉にすると、平和な日常とか望ましい現実とか、その中で生きているとき自分は健康だと思っています(いまのところ)

例えば、犯罪や事故に巻き込まれてばかりだとしたら、いかに強靭な肉体でも健康ではないということです(具体的な事柄に対してなら、健康か不健康かハッキリ言えるんですけど、まとめるのはすごく難しいんですよね)

なぜそう考えるのかというと、というか、考えるのではなく、体に問うた結果そうなりました。

その人にとっての健康の定義は、からだが知っています。

(「からだに問う」ことに関連して、またいつかお話しします、ありがとうございました。)

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やめられるわけがない

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会社員だったころ一緒に仕事をしていた人の話をします、Aさんと呼びます。

Aさんは常にタバコをすっていました。

ある時、会社の健康診断の結果とその後の医師の診察結果について話しをしました。

Aさんは言いました「〜が高いって、(※たぶんコレステロールとか血圧のことだったと思う)タバコ減らすか止めるかした方がいいって・・・」

私は軽い気持ちで言いました「やめればいいじゃん」

Aさん「〜を下げるためだけにコレ(タバコ)はやめられない」

Aさんと対話した医師は、喫煙のリスクについて話をしたはずだと思います。

でも結局、Aさんにとって健康診断の結果とは、いろんな数値が正常範囲であるか否かという意味しかありませんでした。

だったらAさんがタバコを止められるわけがありません、だってやめるだけの価値がないんだから(本人にとって)

(私にとって健康とは何か、またいつかお話しします、ありがとうございました。)

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健康とは


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 ある目的のために体の状態を良くしたいということは、すごく建設的な考えなので、どんな問題でも必ず改善されていくと思います。(施術者ではなく当人が主体となって)

それと、たぶんですけど、こういう考えをもつ人は「健康」という言葉にこだわってないと思います。(人生において、やりたい事が不自由なくできればOKとか)

本人の意識にかかわらず、世の中の大部分の人は「健康の範疇」だと、私自身は思っています。「健康ってことでいいじゃないですか」と、

ところでWHO(世界保健機関)の「健康」の定義は、「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、単に病気が無いことではない」となっています。

だから例えば、健康診断の結果すごく良かったけど何かコンプレックスがあるからダメみたいな話でしょうか。

(健康観についてもう少しお伝えしたいことがありますが、またいつかお話しします、ありがとうございました。)

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