ふと、思う

どこで見たのか、聞いたのか、忘れてしまいましたが、

むかし観た映画か漫画かの、あるシーンの中で、

登場人物『A』の前に、別の人物『B』が突然立ちはだかります。

 

Aは言います、『お前に用は無い』

Bが返します、『そっちに無くても、こっちには有る』

 

BはAに対して恨みがあるのですが、

Aはそのことを認識していない、という状況です。

 

自分には敵が多く、スキがあれば自分を殺そうとする人間は山ほどいる、

そう認識している人がいるとすれば、その人は自分の周囲の状況に常に注意をはらうことでしょう。

 

その人にとって、『身の安全』とは常に脅かされているものですが、

本人がそれを自覚している限り、自主的に確保できるものでもあります・・・

 

はて? 平和な日常を切り裂いて、とつぜん迫りくる通り魔的な犯罪・事故・災害・・・

そういうことを常に意識し続けてたら疲れますけど、でも、

先に述べた、自分の身の安全を脅かすものの存在を認識してる人と、

そんなこと身に覚えのない人と、

身の安全を脅かすものが、事件だろうと、事故だろうと、災害だろうと、病気だろうと・・・

 

程度の違いこそあっても、『護身』という意識に少しも違いはないと、

ふと、思った

zen

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『意』と『気』と『力』の話

高岡英夫さん(運動能力や武術の極意などを研究されている方)が、

著書の中で述べられている事を思い出しました。

要約すると、

(ある種の凶悪犯罪者について)

やっている事の善し悪しは別として、

人間の能力的には、精神的・肉体的に“極まった”状態である(その裏には、『身体意識』(※高岡氏の提唱する概念)が最も悪い方向に積み上がった状態がある)

 

私なりの受け止め方で話すと、

『(なんらかの理由で)エネルギーが悪い方向に高まって爆発した』というイメージです。

 

つまり、逆に“善い方向”に働けば、何か『偉業』を成していた可能性もあるということになりますが、

 

一人の人間の『行動原理』というものが“方向性”だとすると、

具体的に行う事柄の大きさ(重大さ)は、そこに込められる“エネルギー”の大きさで決まるのかもしれません。

 

問題なのは、脆弱な“構造”の中に、意図することなく、大きな質量のものが溜め込まれることだと思います。

 

そこには、本当に自分でコントロールしていることが一つも無く、

“自由”も無いと思うんです。

 

だから、人には『意で気を導き、気で力を導く』練習をすすめます。

太極拳にもそういう力があります。

つきぐっちゃん昼寝

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考えるべき時

感染者数の減少、

 

緊急事態宣言の解除、

 

抗ウイルス薬の開発、

 

宿泊施設の予約増、

 

以上の事柄は、“コロナ禍”の現状に関連するワードとして、

最近とくに印象に残っているものです。(個人的に)

 

漠然と、ポジティブな印象をうけると思います。

もちろん、それぞれの事柄には、一応の根拠とされる事実があると思われます。

 

そして、すべての事柄に対して、“否定的な見解”や“慎重論”が存在しています。(同じ事実に対しての認識の違いでもあります)

これこそが大切な事だと思います。

 

『病(やまい)は気から』ではありませんが、

いま、“コロナ”に対しての人々の認識が、なにか『景気』のように変化している気がします。

 

私は、それが決して良いことでは無いと思っています。

zen

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抽象的な話

“ソリューション & サポート”という言葉を聞いて、

どこかで聞いたことがあると思ったら、

印刷業の会社員だったころに聞いた言葉でした。

 

言葉の意味は、『(顧客のかかえる)問題解決』ですが、

さらに進んで、“積極的な問題提起”からの『問題解決』を意味しています。

 

顧客が求めるものを提供するのは当たり前、

顧客が『何のために』それを求めるのかを考え、もう一歩先の提案をする・・・

 

それはまだ良いとして、

問題ではないことを、重大な問題のように“あげつらい”

人を不安な気持ちにさせ、

そこにつけこんで、物を売る?

そこには、小さな字でこう書かれていませんか?

『効果・効能を保証するものではありません』と、

 

断言しますが、

どんな分野の商品・サービスであろうと、

それを売るための“宣伝文句”には一つの“型”とも言うべきものが存在します。

 

その目的は、ただ『買わせること』のみ

 

商売とは、そういうものなのでしょうか、

「そうでなければ、商売として成立しない」と言うなら、

私の仕事は“商売”じゃなくていいです。

つきぐっちゃん昼寝

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むずかしい話

VID_20210911_132458_exported_2806←ブラックバス

Screenshot_2021-09-17-10-36-11~2←ミドリガメ

 

池とか川で、“外来種”と言われる生き物を見ることがあります。

上の画像は、どちらも乙川に棲んでいる生き物ですが“外来種”です。

 

“外来種”の何が問題かというと、

生態系への影響です。

 

すぐ思い浮かぶ事としては、

・“外来種”が“在来種”を直接的に捕食する

・一定の範囲の中で“外来種”が増え、“在来種”の生息域を圧迫する(餌となる生物や、産卵場所の奪い合いが起こる)

など、です。

 

“外来種”を持ち込むのは人間ですし、問題視するのは人間ですから、

当然、人間の生活への影響があるということです。

漁業や農業などに与える影響は想像しやすいと思います。

 

それらの問題を含め、もっと様々な問題があるのでしょう。

 

その問題とは、様々な立場からの視点によって生み出されています。

また、思想・信条・『好む・好まざる』という感情によっても、その問題の度合いが大きく変わります。

 

いずれにしろ“外来種”に関する問題は、『命とは何か』という議論に発展した後、

現実的には解決不能、議論の収拾不能であることを、

人々に“なんとなく”感じさせるのです。

 

そして、この問題は、“生命力”というものが如何に(人知を超えて)強大な力であるかということを示してもいるのです。

 

ところで、海洋生物には“外来種”という問題は存在するのでしょうか?

海は世界中繋がっているのだから、少なくても“外来種”という概念はあり得ない?

いまのところ、そう思ってます。

つきぐっちゃん昼寝

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ゴムボールのような?

『ケガをしにくい体』ということについて考えていた時に、

一つの“例え”を思いつきました。

魚釣りで使う『リール』の『ドラグ』という機能です。

 

ドラグ

リールは糸を巻き取る道具ですが、

ドラグを調整することによって、

一定の範囲を超える大きな力に対して、抵抗をかけつつ糸を逆に送り出すことができます。

もし、この機能が無ければ、大きな力に対して、糸や釣竿の強度が限界を超えれば壊れてしまうでしょう。

 

じつは、ここからが本題なのですが、

“ケガ”(筋肉や関節の損傷に限定して)をしにくくなるためには、

体にかかる大きな力に対して、次の3つのうち

①完全に脱力し抵抗しない

②筋肉をガチガチに固めて抵抗する

③一定の力を保ちつつ柔軟に対応する

『ドラグ』の話をしたのですから、③が正解ですが、

 

※①は何が問題なのかというと、

たとえ抵抗しなかったとしても、筋肉には伸びる限界があり、関節には動く限界があるからです。

(限界に達する前に、体にかかる負荷が無くなるなら、問題ありませんが)

①と②は、けっきょく同じことなのです。

 

『高所から落下した赤ちゃんが無傷であった』という事例を出して、

“脱力状態だから助かった”とする意見を聞いたことがありますが、

この赤ちゃんが無傷で済んだのは偶然です(単純な話ではありません)

 

では、③とは、どのような状態なのかと言いますと、

こちらの記事をご覧ください

ここで説明している『放鬆(ほうしょう)』という状態によって可能となります。

 

『放鬆』という状態は、けっして自然な状態とは言えません、

体得するには具体的な訓練法もございます。

東洋医学的にも、いろいろと良い効能が得られます、

興味のある方は、当院でもいつでもご指導いたします。

つきぐっちゃん昼寝

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たとえ話

ふと、“平和”と“健康”って同じものだと思いました。

それが失われるまで、その価値を実感しにくいものだと思うのです。

 

例えば、『平和』を『何も起こらない』というイメージに置き換えることができます。

また、『健康』も『(自覚症状が)何も無い』という表現に置き換えることができます。

 

共通するのは、“なにもない”ということなので、

そのまま価値を見出すのは難しいかもしれませんが、

二段階に分けて考えると、

 

まず、自分が最も容易に価値を感じられる物事を思い浮かべます。

そして、それらの物事が“なにもない”状態(平和・健康)の上で成り立っていることを考えれば、

論理的には、平和・健康の価値と結びつけられます。

 

でも残念ながら、“価値”は実感することであって、理屈で理解することはできません。

だから、『失うこと』は、平和・健康の価値を実感するための、唯一のプロセスなのかもしれません。

 

そして、現在、平和と健康を失った人が世界中に存在するわけです。

それが身近な事でなくても、容易に目の当たりにすることができます。

そこで大切なのは『想像力』です。

 

『想像力』を使えば、

他者の身に起こった事を、自分の身に置き換えることができます。

 

あまりにも極端な事は想像し難いかもしれませんが(例えば、至近距離で爆弾が爆発したとか)、

肺炎によって呼吸ができない人と同じ状態にはなれなくても、いっその事、息を止めてみたらいいと思います。

“地獄”でしょ・・・

 

平和というのは自分ひとりでコントロールできるとは限りませんけど、

健康は、ほとんど自分の意志で維持できます。(一度その価値を実感できれば、それを維持するための方法は調べればいくらでもありますから、それを実践するだけです)

 

そして、今ほど健康の価値を想像するのに適した時代も、そう無いはずです。

つきぐっちゃん昼寝

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