岡崎市でも、あちこちの水辺で『カワセミ』の姿を見かけます。
あざやかな青色と独特の飛び方で、すぐわかりました。
日本で冬を越す渡り鳥なんだそうです。
(ケータイのカメラで撮影するのは無理)
岡崎市でも、あちこちの水辺で『カワセミ』の姿を見かけます。
あざやかな青色と独特の飛び方で、すぐわかりました。
日本で冬を越す渡り鳥なんだそうです。
(ケータイのカメラで撮影するのは無理)
世界中を巻きこんだ“ウイルス騒動”が始まったとき、
“専門家”は『パンデミック』という言葉の定義を強調して、
「現状はパンデミックではない(あてはまらない)」と言いつづけ、
気がついたときは、
ふつうに「パンデミック!」って言っていました。
この感じは、過去にも経験したような気がします。
(なんだったかな― 、思い出せませんけど)
ある立場の人たちが、“いじめ”を「“いじめ”にはあたらない(“いじめ”とは認識していない)」って言うのと似ている気もします。
(この場合は、最悪の事態が起こった後で、『過去形』で言うことが多いですが)
ということは、
ある種の“ワード”が飛び交い始めたときは、その時点では既に、最悪の結果になる可能性が高い、
ということを、経験値として持っておいても良いのでしょうか。
そんでもって今、
新たな“変異株”出現の話題・・・
まあ、それはそれ、事実なら受け入れるしかないのですが、
国内での最初の陽性者発覚を受けてからの、
その対応、
そして二例目の報告、
率直に言って、耳をうたがった。
どこで見たのか、聞いたのか、忘れてしまいましたが、
むかし観た映画か漫画かの、あるシーンの中で、
登場人物『A』の前に、別の人物『B』が突然立ちはだかります。
Aは言います、『お前に用は無い』
Bが返します、『そっちに無くても、こっちには有る』
BはAに対して恨みがあるのですが、
Aはそのことを認識していない、という状況です。
自分には敵が多く、スキがあれば自分を殺そうとする人間は山ほどいる、
そう認識している人がいるとすれば、その人は自分の周囲の状況に常に注意をはらうことでしょう。
その人にとって、『身の安全』とは常に脅かされているものですが、
本人がそれを自覚している限り、自主的に確保できるものでもあります・・・
はて? 平和な日常を切り裂いて、とつぜん迫りくる通り魔的な犯罪・事故・災害・・・
そういうことを常に意識し続けてたら疲れますけど、でも、
先に述べた、自分の身の安全を脅かすものの存在を認識してる人と、
そんなこと身に覚えのない人と、
身の安全を脅かすものが、事件だろうと、事故だろうと、災害だろうと、病気だろうと・・・
程度の違いこそあっても、『護身』という意識に少しも違いはないと、
ふと、思った
高岡英夫さん(運動能力や武術の極意などを研究されている方)が、
著書の中で述べられている事を思い出しました。
要約すると、
(ある種の凶悪犯罪者について)
やっている事の善し悪しは別として、
人間の能力的には、精神的・肉体的に“極まった”状態である(その裏には、『身体意識』(※高岡氏の提唱する概念)が最も悪い方向に積み上がった状態がある)
私なりの受け止め方で話すと、
『(なんらかの理由で)エネルギーが悪い方向に高まって爆発した』というイメージです。
つまり、逆に“善い方向”に働けば、何か『偉業』を成していた可能性もあるということになりますが、
一人の人間の『行動原理』というものが“方向性”だとすると、
具体的に行う事柄の大きさ(重大さ)は、そこに込められる“エネルギー”の大きさで決まるのかもしれません。
問題なのは、脆弱な“構造”の中に、意図することなく、大きな質量のものが溜め込まれることだと思います。
そこには、本当に自分でコントロールしていることが一つも無く、
“自由”も無いと思うんです。
だから、人には『意で気を導き、気で力を導く』練習をすすめます。
太極拳にもそういう力があります。
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感染者数の減少、
緊急事態宣言の解除、
抗ウイルス薬の開発、
宿泊施設の予約増、
以上の事柄は、“コロナ禍”の現状に関連するワードとして、
最近とくに印象に残っているものです。(個人的に)
漠然と、ポジティブな印象をうけると思います。
もちろん、それぞれの事柄には、一応の根拠とされる事実があると思われます。
そして、すべての事柄に対して、“否定的な見解”や“慎重論”が存在しています。(同じ事実に対しての認識の違いでもあります)
これこそが大切な事だと思います。
『病(やまい)は気から』ではありませんが、
いま、“コロナ”に対しての人々の認識が、なにか『景気』のように変化している気がします。
私は、それが決して良いことでは無いと思っています。
“ソリューション & サポート”という言葉を聞いて、
どこかで聞いたことがあると思ったら、
印刷業の会社員だったころに聞いた言葉でした。
言葉の意味は、『(顧客のかかえる)問題解決』ですが、
さらに進んで、“積極的な問題提起”からの『問題解決』を意味しています。
顧客が求めるものを提供するのは当たり前、
顧客が『何のために』それを求めるのかを考え、もう一歩先の提案をする・・・
それはまだ良いとして、
問題ではないことを、重大な問題のように“あげつらい”
人を不安な気持ちにさせ、
そこにつけこんで、物を売る?
そこには、小さな字でこう書かれていませんか?
『効果・効能を保証するものではありません』と、
断言しますが、
どんな分野の商品・サービスであろうと、
それを売るための“宣伝文句”には一つの“型”とも言うべきものが存在します。
その目的は、ただ『買わせること』のみ
商売とは、そういうものなのでしょうか、
「そうでなければ、商売として成立しない」と言うなら、
私の仕事は“商売”じゃなくていいです。
池とか川で、“外来種”と言われる生き物を見ることがあります。
上の画像は、どちらも乙川に棲んでいる生き物ですが“外来種”です。
“外来種”の何が問題かというと、
生態系への影響です。
すぐ思い浮かぶ事としては、
・“外来種”が“在来種”を直接的に捕食する
・一定の範囲の中で“外来種”が増え、“在来種”の生息域を圧迫する(餌となる生物や、産卵場所の奪い合いが起こる)
など、です。
“外来種”を持ち込むのは人間ですし、問題視するのは人間ですから、
当然、人間の生活への影響があるということです。
漁業や農業などに与える影響は想像しやすいと思います。
それらの問題を含め、もっと様々な問題があるのでしょう。
その問題とは、様々な立場からの視点によって生み出されています。
また、思想・信条・『好む・好まざる』という感情によっても、その問題の度合いが大きく変わります。
いずれにしろ“外来種”に関する問題は、『命とは何か』という議論に発展した後、
現実的には解決不能、議論の収拾不能であることを、
人々に“なんとなく”感じさせるのです。
そして、この問題は、“生命力”というものが如何に(人知を超えて)強大な力であるかということを示してもいるのです。
ところで、海洋生物には“外来種”という問題は存在するのでしょうか?
海は世界中繋がっているのだから、少なくても“外来種”という概念はあり得ない?
いまのところ、そう思ってます。