前から思ってたこと

ある事業者が不祥事を起こしたとします。

 

少し細かく言うと、

“人身事故”を発端にして、捜査の結果、違法な運営状態の実態が明らかにされた、とします。

 

その直後、

その事業者の他の同業者が、

なぜか営業を自粛したり、

“自主規制”を設けたり、

とってつけたようなサービス改善を行ったり、

健全な運営をアピールするような動きを見せることがあります。

 

ちょっと言い方が悪いですが、

その業界全体が、なんとなくザワザワし始めるのです。

 

そういう様子を見ると、

なんともいえない違和感を覚えます。

 

だって、

同業者の不祥事が無ければ、ザワザワすることは無いんでしょ?

不祥事を起こした当事者だって、

発端となった事故が無ければ、何食わぬ顔で、“ずさんな”運営をつづけていたんでしょ?

 

さきほど“違和感”と言いましたが、

それは、なんとなく人間の“浅ましさ”のようなものを感じているのかもしれません。

 

 

そういえば、

某お寿司屋さんの “おとり広告” (景品表示法違反?)なんていう話題もありましたね・・・

 

つきぐっちゃん昼寝

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チェインギャング

もう、随分と日がたちますが、非常に考えさせられた出来事があります。

 

ある芸人さんが亡くなったのですが、

その死因が“自死”であったということで、ショッキングな話題として取り上げられていました。

 

近しい関係者の、大方の感想として、

“人知れぬ苦悩”があったのではないか(?)ということが、共通してあるように思われます。

(もちろん、すべては憶測なのですが)

 

具体的に、どのような悩みが有ったにせよ、

本人の仕事が “人を笑わせること” である以上、

一般人が目にする姿は、すべて“笑い”というものに結び付けられています。

とは言っても、いまどきは、どんな有名人だって(むしろ、有名だからこそ)表には出ない悩みぐらい有ることは、容易に想像できます。

(もちろん、すべて憶測です)

 

人が、自ら命を絶つほどの悩み(苦しみ)とは、どんなものか、

それは、当人が『どれほど弱っているか』という視点で考えるべきことだと思っています。

簡単に言えば、

元気なら乗り越えられる事でも、元気が無ければ乗り越えられません。

 

そして、人間である以上、“理由なく”元気が無いときもあります、

疲れている時です、あたりまえです、

これは、あたりまえの事なんです。

“病気”でもなんでも無く、人としての正常な姿だということです。

 

当人の普段の様子から、

苦悩など微塵も感じられなかったとして、

その点について、“芸人魂” とか “プロ意識” と捉える人もいるでしょうけど、

 

 

ちょっと、ある歌の歌詞をご紹介します。

 

仮面をつけて生きるのは

息苦しくてしょうがない

どこでもいつも誰とでも

笑顔でなんかいられない

 

 

いつも人に対して、笑顔で機嫌よく接することは、間違いなく“美徳”であると思います。

“治療家”という者にとっては、なおさら身につけるべき資質でしょう。

ただし、

それが出来ないとき、

そのことを苦にしてしまうとしたら、

それは地獄だと思います。

 

明大寺マッサージ院 挿絵

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とても大切な話

毎日、国内外で騒がれる様々な問題、

まあ、わかりますけど、

日常生活で気が滅入ってしまわないように、

趣味は大切だと思います。

 

すこし先に楽しみな事があると、自然に前向きな気持ちになりますしね。

(数か月先の映画の予告みたいなものです)

 

 

小学生のころ東京に住んでいたんですが、

夏になると、祖父と一緒に、江戸川にハゼを釣りにいっていました。

 

ゴカイなどの生きたエサを使って釣るのが一般的ですが、

近年はルアーを使って釣る人もいるらしい、ということで、

8月になったら “ハゼクラ”(※クランクベイトという種類のルアーを使います)をやってみようと思います。

 

 

対象の魚が10~15cmのハゼですから、ルアーもそれなりに小さいです。

ルアーで釣るといっても、

ルアーをエサとして認識するというよりは、縄張りに入ってきた外敵として攻撃してくるという感じだそうです。(アユ釣りみたいな感じでしょうか)

 

さて、未来の予定が決まったのですから、

あと3か月ほどの間は、大地震が起きようが、他国からミサイルが飛んでこようが、生きていられるでしょう。

冗談です

 

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決してまとまらぬ話

15年ほど前、長崎県佐世保で観光船に乗ったことがあります。

 

その日は、雨風が非常に強かったです(個人の主観です)。

 

乗船場所で列に並んでいると、

ある団体客の中の一人が、声をあげました

『今日、こんな天気で、大丈夫なんですか?』

 

その声を受けてかどうか、わかりませんが、

係員によって、乗船に一旦待ったがかかりました。

 

観光客は、ざわつき始めました。(天候への不安に対する“同意”を含む、様々な感情があったと思います)

 

近くにいた子供が、父親らしき人に聞きました、『船のれないの?』

 

まもなく、観光船が出航するというアナウンスがありました。

 

最初に不安を口にした人は、納得してはいない様子でした。

 

子連れの男性が、誰に向かって言うでもなく、大きな声で言いました、

『プロがイケるって判断したんでしょ?』(苛立ちが感じられました)

 

 

さて、このとき、船に乗るのが不安な人は、

乗らずに待つ選択もできたでしょうが、仲間と共に船に乗りました。

(不安の度合いとしては、その程度だったのでしょう。)

 

子連れの男性が言ったように、

多くの人は、様々な場面で“プロ”の判断をあてにします。

(“プロ”の判断に間違いは無い、という思いと、根底には責任転嫁があります。)

 

誰しも、予定していたことが滞りなく順調に遂行されることを望んでいると思います。

レジャーを楽しみたい人も、それを“仕事として”サポートする人もです。

(人が予定することとは、基本的に“良いことを期待する”だけだと思っています。はじめから悪い事を期待する人はいないと思います。)

 

人それぞれの事情、 本音と建前、 理想と現実、 集団と個人、 自然の猛威、 社会、 経済、 (なんか得体の知れないモノゴト全部)

複雑に絡み合った世の中で、都度、自分の目の前に置かれる選択肢、

それを選んだ結果、何があろうとも、

そういう運命だったと言うしかないのかもしれません。

 

(だってさー、 ここんとこ毎日、一歩間違えれば車に跳ねられそうになってるし)

つきぐっちゃん昼寝

 

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いますぐ止められるはずの事

“戦争”についての報道の中で、

特に、兵士による民間人への“暴力行為”が存在することが問題にされていますね。

 

その事実の有無について、

双方(両陣営)の言い分は異なっているようです。

 

私は、“戦争”において公にされる情報の、

その信ぴょう性を決定的に精査することが出来ませんので、

仮に事実であるなら、という話をします。

 

それは当然、許されることではありません。

しかし残念ながら、“戦争”とはそういうものなのでしょう。

 

だからこそ、“戦争”をしてはいけないのだと思います。

 

81年の映画『マッドマックス2』の、

冒頭のナレーションの一部を思い出します。

『指導者たちは話し合ったが、崩壊を防げなかった・・・一般人は打ちのめされるだけだった・・・』

 

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他意は無い

いま世の中で、

“兵器”や“薬”を製造する企業が“儲かっている” であろうことは、だれでも容易に想像できます。

(言い方は悪いですが)

話は変わりますが、

物やサービスは、需要が無ければ売れません。

そして、言われてみれば当然かもしれませんが、

ある物やサービスを売り込むための強力な手段の一つとして、

“需要を生み出す” ということがあります。

 

長い間、社会が抱えている様々な問題に対して、

それらの問題に対処する(問題の根絶とは違う)仕事に従事する人はたくさんいます。

 

もしも、

それらの問題を根絶する新たな発想が、世の中に生まれた時、

いままで、問題に対処してきた人たちは、“仕事を失う” という非常に単純な理屈があります。

 

その時に、仕事を守ろうとする人はいるでしょうか?

つまり、需要を生み出そうとする人がいるのか? ということです。

ここで言う“需要”とは、“問題”のことです。

 

施術者である私の仕事もまた、

人々の抱える問題に対処することです。

自分の仕事が好きですが、

人々の抱える問題が、今すぐにでも世の中から無くなることを願っています。

 

zen

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シンプルな話

ある症状に対して、

例えば、腰痛は根本原因を解消しなければ治らず、

(その原因とは、様々あるかもしれませんが)

“腰を揉んだところで改善するものではない” という考え方があります。

 

“痛い場所”は『結果』であって『原因』ではないということですね。

たしかに、そのとおりだと思います。

(ただし・・・腰痛の原因が、“姿勢”にあると判断したとしても、その“姿勢”もまた結果であって原因ではありませんけどね)

 

根本原因って、本当はすごく奥深い問題だと思います。

でも今回言いたいことは、

『結果』と『原因』は“繋がっている”ということです。

 

東洋医学的に考えるなら、

ある原因によって引き起こされる“痛み”は、

無数に存在する“ツボ”とよばれる場所にも現れています。

 

そのツボに『適切な刺激』を与えることで、

原因にアプローチすることができます。

(根本原因かどうかは別の問題ですが・・・)

 

東洋医学は、体と心を一体のものとして考える学問ですから、

心に影響をくわえる“目に見えない要因”をも、ちゃんと原因の一つとして捉えています。

 

はじめに、『腰痛は腰を揉んでも改善しない』という考え方に触れましたが、

実際は、やり方次第なのです。

 

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オープンワールド

幸いにも、今現在、自分の日常生活は、昨日までと同じ様に、

一言で言えば“平和”に過ぎようとしています。(そう見えます)

 

同じ時に、戦争状態に置かれている国があります。

国際的なイベントを開催する国があります。

 

それらに関する膨大な情報を、(その真偽はさておき)

望むだけ収集することができます。

 

そのような状態が当たり前になって久しいのですが、

その裏で、“世界を狭く感じる”ことがあるなら、

それは危険な感覚なのではないか?と感じました。

 

何がどう危険なのか、うまく言えないので、

漠然とした違和感を感じるだけなのですが、良いことではない感じが強いのです。

 

世界情勢を把握して、

それに対して自分の意見を持ち、

自国の政治について主権者としての意識をもち、

常に、常に、(もはや)一つの世界の中の一人間としてあり続ける『責任』?『義務』?

それは立派なことなのかもしれませんが、

人間は、そんなことの為に生きるわけではないと思います。

 

元より、世界は想像を絶するほど広く、人間一人一人の人生は長く、歴史は遥かに長く、

そこにある全ての情報を把握することなど不可能です。(人生をかけて学問として取り組んだとしても不可能です)

少なくても、人間には不可能です。

 

現在、分かった気になっている全ての事柄について、

全く分かった内に入らない(であろう)ということを、

常に自覚しております。

(なにも知らずに一生を終えたって、なんにも悪くないよー😸)

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なんか腹立ってきた

ある国が他の国に対して、軍事力を伴って介入する、

という事が、また起こりました。

(正確に言えば、“顕在的な状況に変化が起こった”ということなのかもしれませんけど)

 

ある国の中に他の国の領土として『基地』が存在することに、大義名分が有るように、

歴史上の“侵略行為”にも大義名分が有ったことでしょう。

 

なぜ、大義名分の正当性を主張する手段として、最終的には軍事力が選択されるのか?

 

なぜ、(事の善し悪しは別にして)国際的スポーツイベントの方が優先された(感が有る)のか(時期的に)?

 

なぜ、現実味を感じないのか(感じられないのか)?

 

街中を兵士が行き来し、戦車が走行していれば、それはもう“戦争状態”であると考えてよいのか?

 

“国益”とは、どんな犠牲をはらってでも優先されるべき事なのか?

 

 

実際に湧いてくる思考は、もっと直接的で直感的な言葉ですが、

一つ言っておきたいのは、

どんな理由が有ろうと、戦争は許されず、戦争を誘発する行為も許されないということです。

 

それにしても、なぜ実行されてしまった?

なぜ現実味を感じられない?(どうしても感じられない。病気なのか?)

 

つきぐっちゃん昼寝

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