決してまとまらぬ話

15年ほど前、長崎県佐世保で観光船に乗ったことがあります。

 

その日は、雨風が非常に強かったです(個人の主観です)。

 

乗船場所で列に並んでいると、

ある団体客の中の一人が、声をあげました

『今日、こんな天気で、大丈夫なんですか?』

 

その声を受けてかどうか、わかりませんが、

係員によって、乗船に一旦待ったがかかりました。

 

観光客は、ざわつき始めました。(天候への不安に対する“同意”を含む、様々な感情があったと思います)

 

近くにいた子供が、父親らしき人に聞きました、『船のれないの?』

 

まもなく、観光船が出航するというアナウンスがありました。

 

最初に不安を口にした人は、納得してはいない様子でした。

 

子連れの男性が、誰に向かって言うでもなく、大きな声で言いました、

『プロがイケるって判断したんでしょ?』(苛立ちが感じられました)

 

 

さて、このとき、船に乗るのが不安な人は、

乗らずに待つ選択もできたでしょうが、仲間と共に船に乗りました。

(不安の度合いとしては、その程度だったのでしょう。)

 

子連れの男性が言ったように、

多くの人は、様々な場面で“プロ”の判断をあてにします。

(“プロ”の判断に間違いは無い、という思いと、根底には責任転嫁があります。)

 

誰しも、予定していたことが滞りなく順調に遂行されることを望んでいると思います。

レジャーを楽しみたい人も、それを“仕事として”サポートする人もです。

(人が予定することとは、基本的に“良いことを期待する”だけだと思っています。はじめから悪い事を期待する人はいないと思います。)

 

人それぞれの事情、 本音と建前、 理想と現実、 集団と個人、 自然の猛威、 社会、 経済、 (なんか得体の知れないモノゴト全部)

複雑に絡み合った世の中で、都度、自分の目の前に置かれる選択肢、

それを選んだ結果、何があろうとも、

そういう運命だったと言うしかないのかもしれません。

 

(だってさー、 ここんとこ毎日、一歩間違えれば車に跳ねられそうになってるし)

つきぐっちゃん昼寝

 

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