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立花さん
立花 隆(たちばな たかし)さんの『知の旅は終わらない』を読み終えた矢先に、
立花さんが亡くなられていたことを知りました。
もし人間に “知識欲”というものがあるなら、
この方の人生の原動力になったのは、まさしくそんな欲求だったのかもしれません。
何かの専門家であろうとするわけではなく、
純粋に思索の赴くままに、さまざまな分野の知識に触れてこられたわけです。
知識を吸収するわけではなく、
知って、考えて、さらに知ろうとされてきたわけです。
でも、きっと、『死生観』というものが重要なテーマとして、
すべての根底にあったのだと思います。
ずいぶん長いことガンを患われていたことは知っていました。
本当の事は、他人には絶対にわからないけど、
でも、ご本人がどんな気持ちで『死』に臨んでいったか想像がつくんですよね(著書を読むと)、
さて、私が立花隆さんに興味をもったキッカケは、というと、
『猫ビル』と呼ばれる、立花さんの事務所です。
『猫ビル』で仕事をしているという、そのセンス、ただそれだけでした。
でも、もし他の人の事務所だとしたら、けっして、良いとは思わなかったでしょう。
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市民魚釣り場
あまり知られていないようですが、
『吹矢橋』より上流の約2.5キロ区間は、市民魚釣り場として開放されているのです。
間に『竹橋』、『乙川大橋』、『御用橋』をはさんで、仁田えん堤までです。
※ ↓ 画像は『竹橋』付近
※『吹矢橋』より下流 ↓ (こっちの方)は釣り禁止です。
また、いまの時期はアユ釣りも解禁されています。(アユ釣りは有料です)
中学生の時、商業高校の前あたりで、偶然にもアユを釣り上げた事があります。
(アユは友釣りなど専門の仕掛けじゃないと、ふつうは釣れないんですけど)
※ ↓ この辺よりもう少し上で
上記の区間以外での釣りは遊漁券の購入が必要ですが、
詳しくは、市役所に問い合わせるとよいと思います。(中山間政策課だったかな?)
人もいないし、釣れても釣れなくても楽しいと思います。
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あってはならぬ事
↑ 赤枠で囲った部分に、“施術ミス”による『ろっこつ骨折』の事例について書かれています。
↑ 図のようなストレッチを行った際、
『膝を胸に近づけるときに大腿前面が肋骨(ろっこつ)を圧迫することなどが原因と思われます』
と書かれていますが、
無論、圧迫しているのは『施術者』です。
うつ伏せの状態の患者さんの背中を“押して”起こる骨折と、何ら違いはありません。
施術者が、過度な力をそうと認識せずに(できずに)かけているのが目に浮かびます。
施術による事故は、絶対に『あってはならぬ事』です。
しかし、人間は必ずミスをします。
人間は必ずミスをするという前提で、絶対に事故を起こさないためには、
ミスをしても事故につながらない事をすれば良いのです。
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すごく難しい話
床の上に100kgのバーベルが置いてあるとします。
それを、『どんな姿勢でも動作でも良いので、床から数センチ持ち上げてください』、
と言われたら、実際にできるかどうかは別として、やり方を想像できないということは無いでしょう。
いわゆる重量挙げの選手ではなくても、『力持ち』の人なら出来てしまうかもしれませんし、
できない場合でも、どうしたら出来るようになるのか想像することはできると思います。
また、100mを10秒台で走れと言われたら、
これも同じようなことで、少なくても『走る』という動作は誰でも出来ると思います。
これらは、『できる・できない』の違いが、どんな能力の違いなのか?、比較的わかりやすい『目に見える身体能力』だといえます。
それに対して、
ある茶道の先生が、完全に正座した状態から一挙動で(ノーモーションで)立ち上がったり、
ある舞踏家が、他の部位を微動だにせずに手首から先だけを動かしたり、
これらは、一見しただけでは、その能力の特殊さが理解しにくく、
多くの人は、実際にやってみて初めて、『真似できない』ということに気づきます。
さらに、なぜ出来ないのか? どうやったら出来るのかを想像できないと思います。
つまり、『できる・できない』の違いが、どんな能力の違いなのか?わかりにくい『目に見えない身体能力』です。
『目に見える身体能力』は、そのトレーニング方法も明解で、多くの人が同じように身につけられますが、
『目に見えない身体能力』は、『極意』という言葉に置き換えられ、その構造自体を明解に説明することが困難な場合が多いため、そのトレーニング方法も明解ではなく、多くの人が同じように身につけられません。(合気道などの『合気(あいき)』という概念がそれにあたると思います)
『目に見えない身体能力』=『極意』を修得するための道筋として、
一定の条件(制約)の元で要求される事を達成するという方法があります。
達成するためには『極意』の修得が不可欠であるため、『ごまかしがきかない』という意味では、確実に『極意』に行き着くというわけです。
その一定の条件(制約)が『型(形)』というものです。
逆に言えば、極意を持つ人の型と、そうでない人の型は、一目で分かります。
太極拳も極意を修得するための型です。
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われ思う故に
梅雨になったので、雨が降るのはあたりまえなのですが、
晴天の日とくらべて気温は下がります。
しかも、気温が短期間に変動すると、人間の体も調子を合わせにくいので、
さまざまな不具合を生じることでしょう。
こういうことを是非、あたりまえだと思ってください。(こんなの“ふつう”だと、)
とはいえ、不調を感じながらも変わらぬ日常生活をおくるのは大変ですが、
一つご紹介したいお話があります。
ある空手家の方が雑誌のインタビューで仰っていたことで、
『自動車理論』という考え方があります。
私なりの受け止め方で簡単に言いますと、
『体』は自動車(乗り物)で、それを運転する『自分』とは別物であり、
だからこそ乗り物のコンディションが変わっても、それなりに乗りこなすことは可能だという考え方です。
実際に、空手の試合中に手足を骨折しても、それなりにカバーしながら戦い続け、試合に勝利した経験もお持ちのようです。
単に『ガマン強い』ということではなく、
この『自動車理論』をもたない人と比べると、体の不具合が生じた際に、その受け止め方が大きく違うのだと思います。
誰しも自動車を運転するとき、(ある種のレーシングカーは別として)車体の中央に座って運転することはありません。
だから、自分の体の中心と車体の中心は異なるわけです。
その上で、ちゃんと車体の中心を基準にして自動車を動かすことが出来るはずです。(車両感覚です)
これこそが『体』と『自分』を分ける感覚に通じてきます。
『体』は乗り物であり、その中心軸は、運転手である『自分』の中心軸と同一ではない
自分自身を俯瞰(ふかん)する感覚だと思います。
たとえば、痛みや苦しみを感じたとき、
ふと、それを感じている自分を意識すると、
その自分に対して、『深く息をしろ』『痛みによる萎縮を解け』『動け』などの指令を送ることが可能になります。
はたから見てガマン強く見えるということは、こういうことなのかもしれません。
どうしても何かをガマンしなきゃいけないとき、その瞬間に自分と体を切り離せなくても、
一言、『深呼吸をする』と頭で思ってみてください、
思っただけで深呼吸に必要な筋肉が、まず反応してくれます。
体をコントロールし、それによって意識をコントロールするための第一歩です、
つまり『呼吸法』というやつですね








