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時間と空間と気の話

今回は、とても分かりにくい話になるかもしれません。

どこから、どんな順序で話したらいいのか、

上手くまとまるのか分かりませんが、

思いつくところから話していきたいと思います。

それでは、いきます

 

 

『強迫性障害』とか『不安障害』なる言葉がありますが、

これらの言葉の定義や、表現の仕方について、

ここでは不適切な部分があるかもしれませんが、ご容赦ください。

 

 

上記のような疾患のなかの一つに、『確認強迫』というものがあるそうです。

 

たとえば、【外出の際に、家の鍵を閉めたかどうか気になって、何度も確認してしまう】というやつです。

(ひどければ、わざわざ遠方から戻ってきてまで確認してしまう)

 

このような行動は、過度であれば心身を消耗させるでしょうし、

生活に支障をきたす事もある、という点で問題視されるのでしょう。

 

 

ここからは、

私自身の主観的な体験に基づく話をしていきます。

 

 

私も、『鍵しめ』の確認を何度もしてしまうことが、過去にはありました。

そのときの “思考” を、正確に文字にすると次のようになります。

 

 

『今、たしかに鍵を閉めた』

『ドアノブは回らない』

『ドアは開かない』※ →(ここで『OK!』となるなら何の問題もありません)

 

・・・・

『いま、ほんとうに鍵をしめたんだろうか?』

鍵をしめたということが、万が一思い込みだとしたら?』※(この思考が非常に特徴的で、一番の問題であるように思います)

 

 

そして、もういちど鍵を取り出し、鍵を開けます。

 

『鍵が開いたということは、ちゃんと閉まっていたということ』※(一瞬はさみ込まれる思考)

『これは、2回目の鍵しめである』

『万が一、1回目が  “思い込み”  だった場合の保険である』

『もし、2回とも  “思い込み”  だったとしたら、それは仕方ない事』※(2回目の鍵しめを行う際の『前置き』となる思考)

 

 

けっきょく、

2回目の鍵しめを行って出かけますが、(しばらくの間)モヤモヤした気持ちで過ごすことになります。

 

ついでに言うと、

帰ってきて鍵を開けた時、

『あれ? いま、鍵開けたんだっけ? (-_-;)』

と、なります。

 

 

このようなことは、『強迫性障害』というものには当たらないでしょうし、

そこまで深刻に考えた事もありませんが、

自分なりに、この思考パターンを考えてみたときに、

はじめは、『不安』の存在が原因だと思っていましたが、

そうではなく、

何かをする時に、他の思考が入り込んで頭がモヤモヤし、その状態で行った事について実感が弱くなる

という状態があることが分かりました。

 

 

つまり、

鍵をしめても、その行動についての実感が弱いので、自信が持てなくなる

という感じです。

その瞬間の集中力の問題とも言えるかもしれません。

 

 

そうなると、

頭がモヤモヤした状態で何をやっても、じつは、その行動についての実感は弱いのですが、

その行動に不備があっても、特に大きな問題にならない事柄については、

“強迫的” な思いに囚われていないだけ、ということになります。

 

 

あるとき、

“テクニック” を編み出しました。

(極めて感覚的な事なので、具体的な動作の描写のみ記述します)

 

例えば、鍵をしめようとするとき、

その鍵穴やドアノブ付近のホコリを払うかのように、手で空間を振り払う動作をするのです。

(勝ち名乗りを受ける力士が、小さく手刀をきる所作にも似たイメージがあります)

すると、頭のモヤモヤした感じまでが、スッキリと霧が晴れたようになって、

次に行う鍵しめの動作が、すんなりと 一発で『落とし込まれる』のです。

 

 

これは、一種の『気功』であり、

個人的には、

いわゆる神事における所作というものも、同様の意味があると思っています。

モヤモヤした感じを、気の滞りとして捉え、その空間を切り払うイメージと共に、気を入れ換えるのです。

 

私は、こういった事を “科学的” に考察するつもりはありません。

そうすることに、あまり興味が無いのです。すみません

もし、今回の話に共感していただける何方かに、ほんの少しでもお役に立てれば幸いです。

 

 

今年最後の投稿は、唐突な話題で長文になってしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

2023年も、よろしくお願いいたします。

 

つきぐっちゃん昼寝

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そこに愛は

『ブラックバス』 と呼ばれる魚がいます。

いわゆる外来生物ですが、

この魚の生態について、興味深い話をききました。

 

(これはブラックバスに限ったことではないかもしれませんが)

 

産卵期から一定の期間(稚魚がある程度の大きさになるまで)主にオスが、卵および稚魚を外敵から守るのですが、

それ以降は、いままで自分が守っていた稚魚を、平気で捕食しはじめるそうなのです。

 

 

この一連の行動は、すべて  “ホルモン”  の作用(の変化)によって起きていると言われています。

(ホルモンとは、生体が生命活動を維持する上で、さまざまな働きをする『分泌物』のことです)

つまり、ある時期まで子供を守るのはホルモンの作用による行動であり、

表現が適切ではないかもしれませんが、『本能的な欲求に従う行動である』ということです。

 

そして、ホルモンの作用が止まった後、

目の前にいる我が子は、捕食対象の小魚でしかないと・・・

 

ちなみにナマズも、数万個もの卵を産み、その一方で  “共食い”  をすることが知られています。

 

 

このような生態を現実的に考えてみると、

そもそも、沢山の子供を産むということは、

その中の一定数は、同族の食料となること(共食い)が前提であり、

その種族の中で、なるべく効率的に食料を “自給”  するシステムとして機能しているのかもしれません。

 

 

今回このような話をした理由は、

他でもない、人間の営みにおいて、

『先述した生物の生態と、人間のソレとは決定的に異なる』

と、言い切れるのか(?)

という疑問が生じたからです。

 

そのキッカケは、

昨今、大人が子供を、

あるいは、親が子を  “虐待”  するはなしを耳にすることが多かったからです。

(もっとも、そういった情報が、集中的に取り上げられているせいでもありますが)

 

 

人間が、

頭で考えること、心で感じること、自我であると認識していること、

それら全てが、

『脳内で起こっている、何らかの信号の処理にすぎない』

という考えが、仮に現実だとすれば、

 

何らかの原因で機械が故障するかのごとく、

人間とて、

一瞬にして暴走してしまうのかもしれません。

(いや、それが正に現実なのか?)

 

なら、どうする

 

つきぐっちゃん昼寝

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自問

“防衛費” とは、

この国を守るために掛かる費用ということでしょうか。

一般的には、軍事に関わる費用ということですかね(?)

 

 

“何から” この国を守るのか(?)といえば、

それは、他国からの攻撃ということでしょうか。

 

 

仮に、

他国が、この国を攻撃する『理由』があるとして、

 

どのような攻撃が行われると予測され、

それに対して、どのような防衛方法がとられるのか、

 

その防衛方法とは・・・・・

国民の命を完全に守り切れるものなのか(?)

(そうでなければ、意味がないと思うから)

 

 

ひとつの具体的な問題を考える必要性が生じるのだけれど・・・

 

 

他国(どこの国?)の軍事力とは?

それは、具体的に把握できる事なの?

 

国民の命を完全に守り切れなければ意味がないのだから、

“ある程度”  把握してもダメなんですよ。(足りないんですよ)

 

 

そんなこと不可能じゃないの?

 

 

もう、やめます。

 

このような思考は、どのように巡らせても破綻するわけです。

 

 

けっきょく、

“防衛費” と呼ぶかぎり、無限に増え続けるに決まってますよね、

 

たいした説得力も無いままにね

 

おかしな話ですね。

 

明大寺マッサージ院 挿絵

 

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本質的な話

日本において、

『鍼師(はりし)』という国家資格を取得しようとすると、

“東洋医学” について一定の勉強をしなければなりません。

 

その理由は、国家試験において、その知識が問われるからです。

 

 

鍼師は、

鍼(はり)を身体の任意の場所に刺すことで、

身体に、状況に応じた反応を起こさせます。

 

 

では、それが東洋医学なのかというと、

そうとは限りません。

 

 

東洋医学として鍼を使うということは、

鍼を刺すポイント(いわゆるツボ)が、

『気(き)』と『経絡(けいらく)』という概念に基づいて定められていなければなりません。

 

(『気』は “生命エネルギー”  『経絡』は “気の通り道” として定義されています。

これらは、まぎれもなく国家資格者が修得する知識です。)

 

 

前提として、

筋肉という組織に鍼が刺されば、必ず、生理学的な反応が起こります。

それは東洋医学としての作用(ツボの効能)とは違います。

 

解剖生理学の観点から選定されたポイントに鍼を刺したとすれば、

それは元より東洋医学ではありません。

 

 

また、

『経絡上に存在する経穴(いわゆるツボ)』として、

世界標準的に定められているポイントに鍼を刺したとしても、

 

施術者にとって、『経絡』そして『気』の概念が、“机上の空論”  であるなら、

結果的に、身体に何らかの変化を起こせたとしても、

本来の東洋医学の真価を発揮することはできないでしょう。

 

そこには、

東洋医学というものが置かれる立場の、

その現実があるように思います。

 

 

遠い昔、

宇宙観・自然観の根底に『気』の概念を見出し、

特殊能力とも言うべきレベルまで身体能力を高め、

人体をも宇宙に見立てることを可能として、

『気』を体得し、操作することを主眼とした学問が、

現代の  “東洋医学”  の元であることは変わりません。

 

気功講座の挿絵(ビジネス 投稿)2

 

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粛々と生きていく話

多くの人が “不安” を感じるであろう事柄について、

思うことがあります。

 

ここで想定しているのは、

ウイルス感染症、戦争、巨大災害、その他それらに関連する事柄です。

 

 

正確に言うと、その事柄自体ではなく、

その事柄にまつわる沢山の情報が、人を不安にさせるのだと思います。

 

 

もちろん、すべての事柄には“当事者”が存在します。

その当事者の感覚と、

さまざまな媒体から情報を伝え聞く者の感覚は、

まったく異なります。(いかに想像力を働かせても)

自分の目の前に起こっていない事の当事者にはなり得ません。

 

 

この世の中で、毎日のように、思わぬ出来事が起こっています。

先に挙げたような世界規模での問題以外のことです。

『どうして、そんなことが起こるんだ?』と思うような事が沢山あります。

 

それに対して思うことは、

その当事者は、はたして、その事に不安を感じていたのか(?)ということです。

 

おそらく、当事者にとっても思わぬ出来事だったはずです。

 

 

多くの人が不安を感じるであろう事柄について、

その事柄にまつわる沢山の情報について、

おなじ事実に対しての、異なる解釈や、正反対の意見が渦巻いていたとしても、

 

仮に自分が、なにか重い病気に罹っていて、

世の中に溢れる情報を、得る余裕も無く、

自分の病気と闘うことが全てだったとしたら、

不安というものは意味を持たないか、存在しないのではないでしょうか。

 

 

最後に、別の話をして終わります。

ある映画の登場人物の言葉を引用します。

 

『“知らせ” に良いも悪いも無い』

『(その事態が好転すること)を信じられなければ、それは悪い知らせである』

 

 

むろん、あらゆる物事は、必ず二つの面を持ち、つねに変化しつづけるものです。

つきぐっちゃん昼寝

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