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優れた運動のススメ
スポーツを趣味にもつ人が、
それによって体を痛めてしまうのは、すごく勿体ないことだと思います。
スポーツにも色々ありますが、
独自に分類してみたいと思います。
①『ゲーム』・・・対戦相手と競い合うもの、球技、格闘技など
②『レース』・・・個々人が記録・得点を求めるもの、陸上競技、体操競技、重量挙げなど
③『トレーニング』・・・能力向上、健康増進、精神修養、外見を良くする、などの目的で行うもの
(曖昧なもの、どれにも当てはまらないもの、当然あると思いますが)
この三つの中で特に、
『ゲーム』を趣味にしている人が、
そのことを楽しむ一方で、筋肉痛やケガに悩まされることが多いように思われます。
(あくまでも趣味のレベルで行っている人の話です)
その理由についてお話しします。
『ゲーム』は、その時々の展開に応じて、求められる行動(動作の種類・動作の方向・動作の強度)が様々です。
そして動作の種類については、表面的に “左右非対称的” な動きが多いです。(左右の動きの質・量が異なる)
『レース』の場合は、展開が規則的で、求められる行動も規則的です。(合図に従って一定の距離を走ったり、一人ずつ順番に演技を行ったり)
動作の種類については表面的に左右対称的な動きが多いです。(左右の動きの質・量が均等である ※投擲競技の場合は違いますね)
『トレーニング』は、そもそも、体をケアするために行うものですから、それによって体を痛めてしまうとしたら、やり方が間違っているということです。
つまり、
展開が不規則で、動きが不規則であるほど、体を痛める可能性は高いと言いたいわけですが、
現に、プロの『ゲーム』プレイヤーなどは、ケガとの闘いでもあります。よく聞く話です。
彼等は日々、
ケガを防ぐために、あるいはケガを克服するために、『トレーニング』を欠かしません。
更に、
プレーする前には、入念に準備運動をするものです。
プロですら、そうなのです。
しかるに、
趣味で『ゲーム』を行う人の多くは、
『ゲーム』を楽しむことには熱心ですが、『トレーニング』が足りていません。
週末だけ、いきなりプレーしたら、体のあちこちが痛くなるのは当たり前です。
とある肉体労働の現場で、
ある保健師さんが、労働者たちに対して言いました。
『残念ながら、みなさんの仕事は、けっして運動の代わりにはなっていません。だから、毎日仕事していても大半の方は運動不足です。』
ごく少数の人は、仕事の中に『トレーニング』性を見出し、
それを毎日行っているということです。
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他には何も ♪
ちょっとややこしい事を言いますが、
私は、この世の中に 『芸術』というもの、そして『芸術家』という者が、
たしかに存在している事を認めます。
しかし、
『芸術』とは何か? という思考をすることは、
無駄で、価値の無いことだと思っています。
だから芸術の話は、これで終わります。
人間だれしも、好きなモノってあると思います。
好きであることに明確な理由がある場合の『論理的に好ましい』と、
もっと感覚的な(感情的な)『なんか好き』
というものがあると思います。
とくに後者の場合だと、
その対象が、どのようなモノゴトであろうとも、
その人の多くの思考と言動を支配するモノになり得るのではないでしょうか。
私自身、それ無しでは生きていけないほど傾倒しているものがあります。
それほどの感情であるにもかかわらず、
いちばん根底にあるのは、いわく言い難い、『好きである』としか言いようのない感覚です。
それは、その人自身にしか分からない感覚であり、
本来それで良いのですが、
まれに、
個人の『いわく言い難い感覚』に基づいた、何らかの『表現』が、
その『表現』に触れた他者に、
表現者と同じ感覚(感情)を覚えさせることがあるらしいのです。
(心を覗いて見ることは出来ないし、そもそも『いわく言い難い』感覚ですから、証明することは出来ませんけどね)
それで、思ったんですけどね、
そういう現象こそが芸術と言えるのではないでしょうかね。
芸術の話しちゃった
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姿かたちが持つチカラの話
例えば、肌が乾燥しがちな人がいるとします。
さて、この人が体質を改善しようと思ったら、
どのような事を実践すべきなのでしょうか。
『水分を多く摂取すること』と思うかもしれません。
しかし、“水分を体に留めておく力” (即ち、保水力・保湿力) が弱ければ、
水分そのものを多く摂取しても意味がありません。
一つの方法として、
“水分を体に留めておく力” を持っていそうなモノを『食する』ということが挙げられます。
食することによって、そのモノがもつ力(氣)を会得するという考え方です。
もちろん、『食する』からには、食べられる物でなければいけませんが、
どんなものを食べたら良いのでしょうか?
やっぱり、『ミカン』なんかどうでしょう?
見るからに保水力ありそうですよね。
柑橘系の果物を見て、人間の体や細胞などを連想する人もいると思います(いませんか?)
そこが結構大切なポイントだと思うのです。
(言っておきますが、ここでは化学的な話は抜きです)
確認ですが、
果汁たっぷりのミカンを食べたところで、
水分量なんて大したものではありません。
ミカンがもつ力(氣)を取り入れるために食べるのです。
ここまでの話は根本的に、ある思想に基づくものです。
それは、『氣』というエネルギーを性質によって分類するという考えです。
どのように分類するかといえば、
形、色、質感、動き、など・・・
万物がもつ性質を比較し、
似た性質をもつモノは、同じグループの『氣』をもっていると考えられます。
(逆に言えば、その『氣』の性質によって、然るべき姿形になっているといえます。)
大きく五つに分類したものが『五行説(ごぎょうせつ)』と呼ばれ、
これは、東洋医学の診断・治療を行う上でとても重要です。
中国武術の中にも、五行説に当てはめた『五行拳(ごぎょうけん)』や、
十二種類の動物の姿を模した『十二形拳(じゅうにけいけん)』などが存在します。
(動物の姿を模倣することで、その動物の力(氣)を会得する、という考えに基づいています)
有名な『太極拳』は自然の摂理そのものを表しています。
『氣』を分類するという事を、
『学問』として体系化しようとすれば、細かく膨大な知識へと発展してしまうのは仕方のない事かもしれませんが、
本来は、とてもシンプルで直感的な話なのです。
むしろ直感的でなければ、
『氣』という概念の本質をとらえることは出来ません。
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時間と空間と気の話
今回は、とても分かりにくい話になるかもしれません。
どこから、どんな順序で話したらいいのか、
上手くまとまるのか分かりませんが、
思いつくところから話していきたいと思います。
それでは、いきます
『強迫性障害』とか『不安障害』なる言葉がありますが、
これらの言葉の定義や、表現の仕方について、
ここでは不適切な部分があるかもしれませんが、ご容赦ください。
上記のような疾患のなかの一つに、『確認強迫』というものがあるそうです。
たとえば、【外出の際に、家の鍵を閉めたかどうか気になって、何度も確認してしまう】というやつです。
(ひどければ、わざわざ遠方から戻ってきてまで確認してしまう)
このような行動は、過度であれば心身を消耗させるでしょうし、
生活に支障をきたす事もある、という点で問題視されるのでしょう。
ここからは、
私自身の主観的な体験に基づく話をしていきます。
私も、『鍵しめ』の確認を何度もしてしまうことが、過去にはありました。
そのときの “思考” を、正確に文字にすると次のようになります。
『今、たしかに鍵を閉めた』
『ドアノブは回らない』
『ドアは開かない』※ →(ここで『OK!』となるなら何の問題もありません)
・・・・
『いま、ほんとうに鍵をしめたんだろうか?』
『鍵をしめたということが、万が一思い込みだとしたら?』※(この思考が非常に特徴的で、一番の問題であるように思います)
そして、もういちど鍵を取り出し、鍵を開けます。
『鍵が開いたということは、ちゃんと閉まっていたということ』※(一瞬はさみ込まれる思考)
『これは、2回目の鍵しめである』
『万が一、1回目が “思い込み” だった場合の保険である』
『もし、2回とも “思い込み” だったとしたら、それは仕方ない事』※(2回目の鍵しめを行う際の『前置き』となる思考)
けっきょく、
2回目の鍵しめを行って出かけますが、(しばらくの間)モヤモヤした気持ちで過ごすことになります。
ついでに言うと、
帰ってきて鍵を開けた時、
『あれ? いま、鍵開けたんだっけ? (-_-;)』
と、なります。
このようなことは、『強迫性障害』というものには当たらないでしょうし、
そこまで深刻に考えた事もありませんが、
自分なりに、この思考パターンを考えてみたときに、
はじめは、『不安』の存在が原因だと思っていましたが、
そうではなく、
【何かをする時に、他の思考が入り込んで頭がモヤモヤし、その状態で行った事について実感が弱くなる】
という状態があることが分かりました。
つまり、
鍵をしめても、その行動についての実感が弱いので、自信が持てなくなる
という感じです。
その瞬間の集中力の問題とも言えるかもしれません。
そうなると、
頭がモヤモヤした状態で何をやっても、じつは、その行動についての実感は弱いのですが、
その行動に不備があっても、特に大きな問題にならない事柄については、
“強迫的” な思いに囚われていないだけ、ということになります。
あるとき、
“テクニック” を編み出しました。
(極めて感覚的な事なので、具体的な動作の描写のみ記述します)
例えば、鍵をしめようとするとき、
その鍵穴やドアノブ付近のホコリを払うかのように、手で空間を振り払う動作をするのです。
(勝ち名乗りを受ける力士が、小さく手刀をきる所作にも似たイメージがあります)
すると、頭のモヤモヤした感じまでが、スッキリと霧が晴れたようになって、
次に行う鍵しめの動作が、すんなりと 一発で『落とし込まれる』のです。
これは、一種の『気功』であり、
個人的には、
いわゆる神事における所作というものも、同様の意味があると思っています。
モヤモヤした感じを、気の滞りとして捉え、その空間を切り払うイメージと共に、気を入れ換えるのです。
私は、こういった事を “科学的” に考察するつもりはありません。
そうすることに、あまり興味が無いのです。すみません
もし、今回の話に共感していただける何方かに、ほんの少しでもお役に立てれば幸いです。
今年最後の投稿は、唐突な話題で長文になってしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
2023年も、よろしくお願いいたします。
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そこに愛は
『ブラックバス』 と呼ばれる魚がいます。
いわゆる外来生物ですが、
この魚の生態について、興味深い話をききました。
(これはブラックバスに限ったことではないかもしれませんが)
産卵期から一定の期間(稚魚がある程度の大きさになるまで)主にオスが、卵および稚魚を外敵から守るのですが、
それ以降は、いままで自分が守っていた稚魚を、平気で捕食しはじめるそうなのです。
この一連の行動は、すべて “ホルモン” の作用(の変化)によって起きていると言われています。
(ホルモンとは、生体が生命活動を維持する上で、さまざまな働きをする『分泌物』のことです)
つまり、ある時期まで子供を守るのはホルモンの作用による行動であり、
表現が適切ではないかもしれませんが、『本能的な欲求に従う行動である』ということです。
そして、ホルモンの作用が止まった後、
目の前にいる我が子は、捕食対象の小魚でしかないと・・・
ちなみにナマズも、数万個もの卵を産み、その一方で “共食い” をすることが知られています。
このような生態を現実的に考えてみると、
そもそも、沢山の子供を産むということは、
その中の一定数は、同族の食料となること(共食い)が前提であり、
その種族の中で、なるべく効率的に食料を “自給” するシステムとして機能しているのかもしれません。
今回このような話をした理由は、
他でもない、人間の営みにおいて、
『先述した生物の生態と、人間のソレとは決定的に異なる』
と、言い切れるのか(?)
という疑問が生じたからです。
そのキッカケは、
昨今、大人が子供を、
あるいは、親が子を “虐待” するはなしを耳にすることが多かったからです。
(もっとも、そういった情報が、集中的に取り上げられているせいでもありますが)
人間が、
頭で考えること、心で感じること、自我であると認識していること、
それら全てが、
『脳内で起こっている、何らかの信号の処理にすぎない』
という考えが、仮に現実だとすれば、
何らかの原因で機械が故障するかのごとく、
人間とて、
一瞬にして暴走してしまうのかもしれません。
(いや、それが正に現実なのか?)
なら、どうする