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『お大事に』といったら『お大事に』

以前、テレビで見たんですが、

先天的に『痛み』を感じない人がおりまして、

この人は、当時まだ子供なんですけどね、

痛みを感じないがゆえに、ケガをすることも多いらしいんですね。

 

彼は、痛みを感じないだけであって、

身体の強度といいますか、(言葉が適切ではないかもしれませんが)

皮膚・筋肉・骨などの耐久性は、他の人と同じなわけです。

 

でも痛みを感じないので、

たとえば、日常の遊びの中で、

体を傷つけてしまうような負荷を、体に掛けてしまうことがあるらしいんですね。

 

テレビで見たとき印象的だったのは、

骨折した脚が治っていないのに、ピョンピョン飛び跳ねて、はしゃいでいる姿でした。

 

何度か、崩れ落ちるように床にしゃがみ込むんですが(そりゃそうですよね)、

やはり、全く痛みを感じていない様子でした。

 

それで結局、

周囲の人間にとって、難しい事というのは、

ケガを治すために、

本人に、患部を安静に保つことを徹底させる事なんですね。

 

 

みなさんは、

肌を擦りむいたり、切ったりしたときに、

絆創膏を貼ったりしますよね。

 

患部に触らなければ、べつに貼らなくてもいいんですけどね、

でも、なにかしら触ってしまうので(衣類で擦ったり)、

患部を安静にするために覆ってしまうわけですね。

 

 

体の表面のケガに対しては、

だれでも気を使いやすいんですけど、

その一番の理由は、見た目に痛々しいからだと思います。

 

これが、“体の内側の ケガ” となると、

見た目の痛々しさを感じにくいので、

『痛み』だけが、患部を意識させる要素となるわけですね。

 

“ぎっくり腰” や “五十肩” でもですよ、

特定の動作や、患部周囲の状態によって、

患部に何かが触れたり、圧迫されたりするから、

強い痛みを感じるわけです。

 

絆創膏でも貼れりゃいいんでしょうけどね、できないから、

その代わりに、

患部(炎症を起こしている部分)が、

極力、周囲からの接触・圧迫を受けにくくするための処置を行うことはできます。

(とはいえ、それで完全に患部を保護することなんて出来ないですよ。少なくても私には)

 

 

たとえば、痛い所に骨が当たっていたら、よけいに痛いですよね。

だから、骨に当たるところから、ほんの少しズレるように、

あるいは、痛い所と骨との間に、ほんの少し隙間が空くように、

そういう状態にあるとき、

患部は『安静』に保たれているわけです。

 

そして、安静が保たれる中で『治癒』していきます。

 

 

しかし、この安静な状態は、患者さん本人の行動次第で、容易に崩されてしまいます。

 

 

ちがう角度からの話ですが、

いわゆる麻酔によって、痛みを感じなくした場合はどうでしょう?

 

これも、患部をより安静に保つための処置に他なりません。

なにより、

強い痛み、夜間に増強される痛みは、心身を消耗させますから、

痛みから解放されることで、体力を温存し、治癒を早めるでしょう。

 

ところが、

多くの人は、痛みが無くなったとたんに、普通の生活をしてしまうでしょう。

これは、先に述べた “痛みを感じない人” と同じことです。

 

 

あらためて考えてみますとね、

痛いからこそ、痛い動きを避けようとするし、痛い所を庇いもするわけですよね。

(例のテレビ番組のテーマも、そういうことだったかも)

 

最後に、これだけは言わせてください。

安静にするから治るのだと

 

つきぐっちゃん昼寝

 

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新年度に思う

この3月に、姪っ子が高校を卒業しまして、

『美容師』を志して専門学校に入学するそうです。

 

そうですね、そんな時期でした。

 

 

多くの人にとって、

人生で最初に、“進路” というものを、それなりに真剣に意識するのが、高校を卒業する時期なのではないでしょうか。

 

 

自分が『やりたいこと』とか『成りたいもの』が明確であるということは、

なんというか、すごく良いことだと思います。

人生というものを、

目標を軸にして展開していけるということは、

とても楽しいことだからです。

 

 

ただし、

自分が心から『やりたいこと』『成りたいもの』を見つけることは、

最も難しいことなのかもしれません。

 

 

私は、施術家を志したとき、すでに40歳を過ぎていました。

『按摩マッサージ指圧師・鍼灸師』の資格を取得するために、専門学校に通いました。

 

あたりまえの事ですが、

国家資格を取得するための学業の日々は過酷なものでした。

勉強だけでなく、校則など、学校生活全般において非常に厳しかったです。

しかも、入学していきなり “学級委員” やってましたからね(嘘じゃありません、証拠は無いけど)

 

 

ミュージシャンの甲本ヒロトさんが、

『やりたい事をやるために、やらなければいけない事がある』と言っていましたが、

そのとおりだと思います。

 

 

学校生活、国家試験、開業して今日に至るまで、

それを全う出来たのは、

自分が『成りたいもの』そして今、

自分が『何者であるか』に対する気持ちが揺るぎないからに他なりません。

 

 

専門学校に通っていた当時、

何十万円もの学費を払って入学したのに、

どんな理由であろうと、半年も経たずに辞めてしまう人や、

明らかに勉強不足な人、

そういう人が何人もいましたが、

 

けっきょく、

その先にあるものが、本当に『やりたいこと』『成りたいもの』ではなかったとしたら、

その為に、目の前の『やりたくないこと』に取り組むことなど、けっして出来ないでしょう。

 

そういう意味では、

ほんとうに『やりたいこと』を見つけるのは難しくとも、

そうでない場合の判断は容易であると言えます。

そこに対して時間とお金を掛け続けるのは、

正しい選択ではないかもしれません。

 

 

だからやっぱり、

“若い” ってことは、ありがたいことなんですよね。

いくらでも道を選び直せますからね。

10代の若者に言っても分からないでしょうけどね。

 

もちろん、何歳から何をやり直したって、なにも問題ありませんけどね。

健康でさえいればね

 

あいさつブログ

 

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優れた運動のススメ

スポーツを趣味にもつ人が、

それによって体を痛めてしまうのは、すごく勿体ないことだと思います。

 

 

スポーツにも色々ありますが、

独自に分類してみたいと思います。

 

①『ゲーム』・・・対戦相手と競い合うもの、球技、格闘技など

②『レース』・・・個々人が記録・得点を求めるもの、陸上競技、体操競技、重量挙げなど

③『トレーニング』・・・能力向上、健康増進、精神修養、外見を良くする、などの目的で行うもの

(曖昧なもの、どれにも当てはまらないもの、当然あると思いますが)

 

 

この三つの中で特に、

『ゲーム』を趣味にしている人が、

そのことを楽しむ一方で、筋肉痛やケガに悩まされることが多いように思われます。

(あくまでも趣味のレベルで行っている人の話です)

 

その理由についてお話しします。

 

 

『ゲーム』は、その時々の展開に応じて、求められる行動(動作の種類・動作の方向・動作の強度)が様々です。

そして動作の種類については、表面的に “左右非対称的” な動きが多いです。(左右の動きの質・量が異なる)

 

『レース』の場合は、展開が規則的で、求められる行動も規則的です。(合図に従って一定の距離を走ったり、一人ずつ順番に演技を行ったり)

動作の種類については表面的に左右対称的な動きが多いです。(左右の動きの質・量が均等である ※投擲競技の場合は違いますね)

 

『トレーニング』は、そもそも、体をケアするために行うものですから、それによって体を痛めてしまうとしたら、やり方が間違っているということです。

 

 

つまり、

展開が不規則で、動きが不規則であるほど、体を痛める可能性は高いと言いたいわけですが、

 

現に、プロの『ゲーム』プレイヤーなどは、ケガとの闘いでもあります。よく聞く話です。

彼等は日々、

ケガを防ぐために、あるいはケガを克服するために、『トレーニング』を欠かしません。

更に、

プレーする前には、入念に準備運動をするものです。

 

プロですら、そうなのです。

 

しかるに、

趣味で『ゲーム』を行う人の多くは、

『ゲーム』を楽しむことには熱心ですが、『トレーニング』が足りていません。

週末だけ、いきなりプレーしたら、体のあちこちが痛くなるのは当たり前です。

 

 

とある肉体労働の現場で、

ある保健師さんが、労働者たちに対して言いました。

『残念ながら、みなさんの仕事は、けっして運動の代わりにはなっていません。だから、毎日仕事していても大半の方は運動不足です。』

 

 

ごく少数の人は、仕事の中に『トレーニング』性を見出し、

それを毎日行っているということです。

 

明大寺マッサージ院 挿絵

 

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他には何も ♪

ちょっとややこしい事を言いますが、

 

私は、この世の中に 『芸術』というもの、そして『芸術家』という者が、

たしかに存在している事を認めます。

しかし、

『芸術』とは何か? という思考をすることは、

無駄で、価値の無いことだと思っています。

だから芸術の話は、これで終わります。

 

 

人間だれしも、好きなモノってあると思います。

 

好きであることに明確な理由がある場合の『論理的に好ましい』と、

もっと感覚的な(感情的な)『なんか好き』

というものがあると思います。

 

とくに後者の場合だと、

その対象が、どのようなモノゴトであろうとも、

その人の多くの思考と言動を支配するモノになり得るのではないでしょうか。

 

私自身、それ無しでは生きていけないほど傾倒しているものがあります。

それほどの感情であるにもかかわらず、

いちばん根底にあるのは、いわく言い難い、『好きである』としか言いようのない感覚です。

 

それは、その人自身にしか分からない感覚であり、

本来それで良いのですが、

 

まれに、

個人の『いわく言い難い感覚』に基づいた、何らかの『表現』が、

その『表現』に触れた他者に、

表現者と同じ感覚(感情)を覚えさせることがあるらしいのです。

(心を覗いて見ることは出来ないし、そもそも『いわく言い難い』感覚ですから、証明することは出来ませんけどね)

 

 

それで、思ったんですけどね、

そういう現象こそが芸術と言えるのではないでしょうかね。

芸術の話しちゃった

 

つきぐっちゃん昼寝

 

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姿かたちが持つチカラの話

例えば、肌が乾燥しがちな人がいるとします。

 

さて、この人が体質を改善しようと思ったら、

どのような事を実践すべきなのでしょうか。

 

 

『水分を多く摂取すること』と思うかもしれません。

 

しかし、“水分を体に留めておく力” (即ち、保水力・保湿力) が弱ければ、

水分そのものを多く摂取しても意味がありません。

 

 

一つの方法として、

“水分を体に留めておく力”  を持っていそうなモノを『食する』ということが挙げられます。

 

食することによって、そのモノがもつ力(氣)を会得するという考え方です。

 

 

もちろん、『食する』からには、食べられる物でなければいけませんが、

どんなものを食べたら良いのでしょうか?

 

やっぱり、『ミカン』なんかどうでしょう?

見るからに保水力ありそうですよね。

柑橘系の果物を見て、人間の体や細胞などを連想する人もいると思います(いませんか?)

そこが結構大切なポイントだと思うのです。

(言っておきますが、ここでは化学的な話は抜きです)

 

 

確認ですが、

果汁たっぷりのミカンを食べたところで、

水分量なんて大したものではありません。

ミカンがもつ力(氣)を取り入れるために食べるのです。

 

 

ここまでの話は根本的に、ある思想に基づくものです。

それは、『氣』というエネルギーを性質によって分類するという考えです。

 

どのように分類するかといえば、

形、色、質感、動き、など・・・

万物がもつ性質を比較し、

似た性質をもつモノは、同じグループの『氣』をもっていると考えられます。

(逆に言えば、その『氣』の性質によって、然るべき姿形になっているといえます。)

 

 

大きく五つに分類したものが『五行説(ごぎょうせつ)』と呼ばれ、

これは、東洋医学の診断・治療を行う上でとても重要です。

 

 

中国武術の中にも、五行説に当てはめた『五行拳(ごぎょうけん)』や、

十二種類の動物の姿を模した『十二形拳(じゅうにけいけん)』などが存在します。

(動物の姿を模倣することで、その動物の力(氣)を会得する、という考えに基づいています)

有名な『太極拳』は自然の摂理そのものを表しています。

 

 

『氣』を分類するという事を、

『学問』として体系化しようとすれば、細かく膨大な知識へと発展してしまうのは仕方のない事かもしれませんが、

本来は、とてもシンプルで直感的な話なのです。

むしろ直感的でなければ、

『氣』という概念の本質をとらえることは出来ません。

 

明大寺マッサージ院 挿絵

 

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