ブログ一覧

説明十分

あるところに『Aさん』という人がいました。

 

Aさんは、こう言いました。

『私は、いろいろな事を考えるスピードが遅くて、物忘れも多いです。』

 

『忘れても、大して問題にならない事なら気にしませんが、大切な事はメモしておかないといけません。』

 

『私に頼み事がある時は、必ずメモしてください。メモしてあることは、必ずその通りにやります。書いてない事はやりません。』

 

『その際、たとえ毎日メモしてある事でも、その日にメモしてなければ、その日はやりません。書き忘れかな?と思うかもしれませんが、そうではないかもしれないし、他の人なら気を使って融通をきかせるような事でも、私は、そういうことが出来ないんです。だから、大切なポイントがあったら、必ず書き添えてくださいね。』

 

 

(補足)Aさんは、慣れた事なら、人並み以上に早く正確に行える人でもあります。

 

 

Aさんは “能力の高い人” だと、私は思います。

先述した通り、

Aさんは、ご自身の能力(思考の特徴など)を自覚された上で、

大きな問題(特に他者との関係において)が起きないように、周囲に対しても前もって注意喚起をしてらっしゃるからです。

 

逆に言えば、

私なら、絶対に間違いがあってはいけないような大切な事を、Aさんには頼みません。

(Aさんに限らず、他者には頼みません)

だれが見ても確実に遂行できるような『説明書き』を書くことは、非常に難しいことだと思います。

 

 

Aさんに対して『それぐらい言わなくても分かると思って・・・』という考えは通用しません。

『他の人なら気を使って融通をきかせるような事でも、私は、そういうことが出来ないんです。』と、

ちゃんと説明されていますから。

 

つきぐっちゃん昼寝

 

Twitterはこちら

毒舌

人々の大切な財産である “貯金” を

必死になって “投資” させようとしてる輩がいるんですね。

(しかも “外国” に)

 

ここで言ってる “投資” というのは、

多くの人がイメージするような、

短期間でお金を増やす

という目的だけの、

株やら仮想通貨やらを含めた超くだらねえ話のことです。

 

銀行預金だって “投資” だけど、

多くの人は、単なる貯金だと思ってるでしょ?

私もそうです。

それはそれで、いいんです、べつに。

 

 

『投資』って、

本来すごく壮大な、夢と希望のあるモノだと思います。

というか、究極的には、それしかないモノなんだと思います。

でも、そこには計り知れない大きな価値があると思うんです。

 

 

アホみたいな理屈で、人々の老後の、

経済的な不安を煽り、

“資産運用” という、ちょっと誠実そうな言葉(私はそう思っている)と、

低リスクであるということ(この場合、リスクという言葉すら憚られるのだろう)を掲げ、

 

とにかく “投資” は今や、こんなにも敷居が低くて、

やらにゃ損、損、

“投資” こそが、人々のあらゆる不安を解決してくれる、と言わんばかりに、

広告塔としてアピールし続ける、芸能人たちのアホづら見てもイライラしますが・・・

 

 

実際に、“投資” で大きな成果を得た人がいたとしても、

その人は所詮 “ギャンブル” に当たっただけのこと。

 

 

はっきり言いますが、

お金は大切ですよ。(大切でしょ?)

“ギャンブル” なんぞ、1ミリたりともお金を大切にする行為ではないんですよ💢

 

そう思いませんか。

思わない?

 

あ、そう

 

明大寺マッサージ院 挿絵

 

Twitterはこちら

正直に言います

世の中に、

『自分は “心の病”を持つ』と、訴える人は多いんですね。

 

“心の病”って何?

と思うかもしれませんが、

まあ、なんとなく思い浮かぶような、

『うつ病』とか『〇〇恐怖症』とか、

それから、よくアルファベット三文字ぐらいで表されるようなモノまで含めた話だと思ってください。

 

 

このような話を耳にする時、

いつも思うことがあります。

 

もしも、あなたの“病気”を完全に克服できる方法があるとしたら、それを実践しますか?

(そのかわり)あなたは病人ではなくなります。

 

という問いかけをしてみたいのです。

 

 

わざわざ、(そのかわり)~ と付け加えた理由は、

それこそが、決定的に問うてみたいポイントだからです。

 

 

以下、私個人の考えです。(純粋な疑問でもあります)

 

癌などの病気に、日々命を削られている人は、

『病気を克服したい』

『健康な体に戻りたい』

『もっと生きていたい』

と、本気で望むでしょう。

 

では、

たとえば『うつ病』の人が、

医師の診断のもとで、(社会人であれば)仕事を休み、

身近な人たちからも一定の理解を得て、

比較的安定した気分で日常を過ごせている状態から、

 

一転して、

何ものにも揺るがない『最強のメンタル』を手に入れ、

社会生活をおくる上で、客観的にみて、自分の“足かせ”になるモノは何もなく、

他者と比べても、自分が不利だと言える要素は何もなく、

すべては、自分でコントロールすべき事であり、

すべて自分の力であり、自分の責任である。

 

という状態を、心から望めるものでしょうか(?)

 

 

わたしは、絶対に望むべきだと思っています。

 

明大寺マッサージ院 挿絵

 

Twitterはこちら

『お大事に』といったら『お大事に』

以前、テレビで見たんですが、

先天的に『痛み』を感じない人がおりまして、

この人は、当時まだ子供なんですけどね、

痛みを感じないがゆえに、ケガをすることも多いらしいんですね。

 

彼は、痛みを感じないだけであって、

身体の強度といいますか、(言葉が適切ではないかもしれませんが)

皮膚・筋肉・骨などの耐久性は、他の人と同じなわけです。

 

でも痛みを感じないので、

たとえば、日常の遊びの中で、

体を傷つけてしまうような負荷を、体に掛けてしまうことがあるらしいんですね。

 

テレビで見たとき印象的だったのは、

骨折した脚が治っていないのに、ピョンピョン飛び跳ねて、はしゃいでいる姿でした。

 

何度か、崩れ落ちるように床にしゃがみ込むんですが(そりゃそうですよね)、

やはり、全く痛みを感じていない様子でした。

 

それで結局、

周囲の人間にとって、難しい事というのは、

ケガを治すために、

本人に、患部を安静に保つことを徹底させる事なんですね。

 

 

みなさんは、

肌を擦りむいたり、切ったりしたときに、

絆創膏を貼ったりしますよね。

 

患部に触らなければ、べつに貼らなくてもいいんですけどね、

でも、なにかしら触ってしまうので(衣類で擦ったり)、

患部を安静にするために覆ってしまうわけですね。

 

 

体の表面のケガに対しては、

だれでも気を使いやすいんですけど、

その一番の理由は、見た目に痛々しいからだと思います。

 

これが、“体の内側の ケガ” となると、

見た目の痛々しさを感じにくいので、

『痛み』だけが、患部を意識させる要素となるわけですね。

 

“ぎっくり腰” や “五十肩” でもですよ、

特定の動作や、患部周囲の状態によって、

患部に何かが触れたり、圧迫されたりするから、

強い痛みを感じるわけです。

 

絆創膏でも貼れりゃいいんでしょうけどね、できないから、

その代わりに、

患部(炎症を起こしている部分)が、

極力、周囲からの接触・圧迫を受けにくくするための処置を行うことはできます。

(とはいえ、それで完全に患部を保護することなんて出来ないですよ。少なくても私には)

 

 

たとえば、痛い所に骨が当たっていたら、よけいに痛いですよね。

だから、骨に当たるところから、ほんの少しズレるように、

あるいは、痛い所と骨との間に、ほんの少し隙間が空くように、

そういう状態にあるとき、

患部は『安静』に保たれているわけです。

 

そして、安静が保たれる中で『治癒』していきます。

 

 

しかし、この安静な状態は、患者さん本人の行動次第で、容易に崩されてしまいます。

 

 

ちがう角度からの話ですが、

いわゆる麻酔によって、痛みを感じなくした場合はどうでしょう?

 

これも、患部をより安静に保つための処置に他なりません。

なにより、

強い痛み、夜間に増強される痛みは、心身を消耗させますから、

痛みから解放されることで、体力を温存し、治癒を早めるでしょう。

 

ところが、

多くの人は、痛みが無くなったとたんに、普通の生活をしてしまうでしょう。

これは、先に述べた “痛みを感じない人” と同じことです。

 

 

あらためて考えてみますとね、

痛いからこそ、痛い動きを避けようとするし、痛い所を庇いもするわけですよね。

(例のテレビ番組のテーマも、そういうことだったかも)

 

最後に、これだけは言わせてください。

安静にするから治るのだと

 

つきぐっちゃん昼寝

 

Twitterはこちら

新年度に思う

この3月に、姪っ子が高校を卒業しまして、

『美容師』を志して専門学校に入学するそうです。

 

そうですね、そんな時期でした。

 

 

多くの人にとって、

人生で最初に、“進路” というものを、それなりに真剣に意識するのが、高校を卒業する時期なのではないでしょうか。

 

 

自分が『やりたいこと』とか『成りたいもの』が明確であるということは、

なんというか、すごく良いことだと思います。

人生というものを、

目標を軸にして展開していけるということは、

とても楽しいことだからです。

 

 

ただし、

自分が心から『やりたいこと』『成りたいもの』を見つけることは、

最も難しいことなのかもしれません。

 

 

私は、施術家を志したとき、すでに40歳を過ぎていました。

『按摩マッサージ指圧師・鍼灸師』の資格を取得するために、専門学校に通いました。

 

あたりまえの事ですが、

国家資格を取得するための学業の日々は過酷なものでした。

勉強だけでなく、校則など、学校生活全般において非常に厳しかったです。

しかも、入学していきなり “学級委員” やってましたからね(嘘じゃありません、証拠は無いけど)

 

 

ミュージシャンの甲本ヒロトさんが、

『やりたい事をやるために、やらなければいけない事がある』と言っていましたが、

そのとおりだと思います。

 

 

学校生活、国家試験、開業して今日に至るまで、

それを全う出来たのは、

自分が『成りたいもの』そして今、

自分が『何者であるか』に対する気持ちが揺るぎないからに他なりません。

 

 

専門学校に通っていた当時、

何十万円もの学費を払って入学したのに、

どんな理由であろうと、半年も経たずに辞めてしまう人や、

明らかに勉強不足な人、

そういう人が何人もいましたが、

 

けっきょく、

その先にあるものが、本当に『やりたいこと』『成りたいもの』ではなかったとしたら、

その為に、目の前の『やりたくないこと』に取り組むことなど、けっして出来ないでしょう。

 

そういう意味では、

ほんとうに『やりたいこと』を見つけるのは難しくとも、

そうでない場合の判断は容易であると言えます。

そこに対して時間とお金を掛け続けるのは、

正しい選択ではないかもしれません。

 

 

だからやっぱり、

“若い” ってことは、ありがたいことなんですよね。

いくらでも道を選び直せますからね。

10代の若者に言っても分からないでしょうけどね。

 

もちろん、何歳から何をやり直したって、なにも問題ありませんけどね。

健康でさえいればね

 

あいさつブログ

 

Twitterはこちら