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本質的な話

日本において、

『鍼師(はりし)』という国家資格を取得しようとすると、

“東洋医学” について一定の勉強をしなければなりません。

 

その理由は、国家試験において、その知識が問われるからです。

 

 

鍼師は、

鍼(はり)を身体の任意の場所に刺すことで、

身体に、状況に応じた反応を起こさせます。

 

 

では、それが東洋医学なのかというと、

そうとは限りません。

 

 

東洋医学として鍼を使うということは、

鍼を刺すポイント(いわゆるツボ)が、

『気(き)』と『経絡(けいらく)』という概念に基づいて定められていなければなりません。

 

(『気』は “生命エネルギー”  『経絡』は “気の通り道” として定義されています。

これらは、まぎれもなく国家資格者が修得する知識です。)

 

 

前提として、

筋肉という組織に鍼が刺されば、必ず、生理学的な反応が起こります。

それは東洋医学としての作用(ツボの効能)とは違います。

 

解剖生理学の観点から選定されたポイントに鍼を刺したとすれば、

それは元より東洋医学ではありません。

 

 

また、

『経絡上に存在する経穴(いわゆるツボ)』として、

世界標準的に定められているポイントに鍼を刺したとしても、

 

施術者にとって、『経絡』そして『気』の概念が、“机上の空論”  であるなら、

結果的に、身体に何らかの変化を起こせたとしても、

本来の東洋医学の真価を発揮することはできないでしょう。

 

そこには、

東洋医学というものが置かれる立場の、

その現実があるように思います。

 

 

遠い昔、

宇宙観・自然観の根底に『気』の概念を見出し、

特殊能力とも言うべきレベルまで身体能力を高め、

人体をも宇宙に見立てることを可能として、

『気』を体得し、操作することを主眼とした学問が、

現代の  “東洋医学”  の元であることは変わりません。

 

気功講座の挿絵(ビジネス 投稿)2

 

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粛々と生きていく話

多くの人が “不安” を感じるであろう事柄について、

思うことがあります。

 

ここで想定しているのは、

ウイルス感染症、戦争、巨大災害、その他それらに関連する事柄です。

 

 

正確に言うと、その事柄自体ではなく、

その事柄にまつわる沢山の情報が、人を不安にさせるのだと思います。

 

 

もちろん、すべての事柄には“当事者”が存在します。

その当事者の感覚と、

さまざまな媒体から情報を伝え聞く者の感覚は、

まったく異なります。(いかに想像力を働かせても)

自分の目の前に起こっていない事の当事者にはなり得ません。

 

 

この世の中で、毎日のように、思わぬ出来事が起こっています。

先に挙げたような世界規模での問題以外のことです。

『どうして、そんなことが起こるんだ?』と思うような事が沢山あります。

 

それに対して思うことは、

その当事者は、はたして、その事に不安を感じていたのか(?)ということです。

 

おそらく、当事者にとっても思わぬ出来事だったはずです。

 

 

多くの人が不安を感じるであろう事柄について、

その事柄にまつわる沢山の情報について、

おなじ事実に対しての、異なる解釈や、正反対の意見が渦巻いていたとしても、

 

仮に自分が、なにか重い病気に罹っていて、

世の中に溢れる情報を、得る余裕も無く、

自分の病気と闘うことが全てだったとしたら、

不安というものは意味を持たないか、存在しないのではないでしょうか。

 

 

最後に、別の話をして終わります。

ある映画の登場人物の言葉を引用します。

 

『“知らせ” に良いも悪いも無い』

『(その事態が好転すること)を信じられなければ、それは悪い知らせである』

 

 

むろん、あらゆる物事は、必ず二つの面を持ち、つねに変化しつづけるものです。

つきぐっちゃん昼寝

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ありがとう、さようなら

10月1日、アントニオ猪木さんが亡くなりました。

 

私は、新日本プロレスが好きなので、

新日本プロレスを創った猪木さんに、お礼を述べたいと思います。

ありがとうございました。

 

“強さ” に象徴される人生を歩んできた人だと思いますので、

病気によって弱りゆく姿は、

余計に印象的でありました。

 

 

猪木さんといえば、『元気ですか―!!』とか『元気があれば何でもできる』という、有名なフレーズがありますね。

猪木さんご自身が『元気』という言葉を発するとき、

そこには、きっと深い意味があったと思うんです。

(単なる言葉のイメージだけではなく、なにか実体的なエネルギーを伴うような)

 

常に“熱気”を周囲にふりまいて生きる人というのは、

それによって、他者を元気づけるものなのでしょう。

その熱気ゆえに、他者と衝突することがあったとしても、

他者を奮い立たすことに違いは無いのでしょう。

 

 

実をいうと私は、

アントニオ猪木という“人間”  が好きではありませんでした。

 

しかし、この人がいなければ、この人が新日本プロレスを創らなければ、

現在に至るまで、多くのレスラー、多くの試合を観て楽しむことはできませんでした。

そういう意味で、私もアントニオ猪木から元気をもらっていたと思います。

 

ありがとうございました。

 

↓以下、猪木さんとは関係ないけど、過去に扱った新日本プロレスネタ

 

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まんが6

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言葉を選ぶ話

地球上のどこかで起こっている『戦争』について、

突き詰めて考えてみると、

戦闘によって、直接的に命を落とす人々がいる現状と、

それ以外の人々(直接的に戦闘に関わらない人々 ※戦争している国以外の国)の日常との間に、

全く何の繋がりも無いということは、あり得ないと思います。

 

しかし、現実には、

(私の場合)一日の殆どの時間を、目の前の“日常生活” に心を留めて過ごすことになります。

 

ただし、いつ如何なる時も確信的に言えることは、

どんな理由があっても戦争には反対であるということです。

 

もうすこし細かく言うと、

自国と他国が直接的・間接的に関わる戦争行為そのものを批判し、

一個人としては、戦闘に参加しないということです。

 

ここで強調したいことは、

もし、国民の義務として、戦争への動員がかけられた場合においても、

それを拒否する(即ち、法律に違反する)ということです。

 

たとえ、重い刑罰を科せられることになるとしても、

また、他国からの攻撃によって、それに対する“報復” を正当化する機運が高まったとしても、です。

 

戦争に反対するということは、そういうことです。

これは、いま自分の目の前には無くても、どこかに厳然と存在する現実に対する、最終的な思いです。

 

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