粛々と生きていく話

多くの人が “不安” を感じるであろう事柄について、

思うことがあります。

 

ここで想定しているのは、

ウイルス感染症、戦争、巨大災害、その他それらに関連する事柄です。

 

 

正確に言うと、その事柄自体ではなく、

その事柄にまつわる沢山の情報が、人を不安にさせるのだと思います。

 

 

もちろん、すべての事柄には“当事者”が存在します。

その当事者の感覚と、

さまざまな媒体から情報を伝え聞く者の感覚は、

まったく異なります。(いかに想像力を働かせても)

自分の目の前に起こっていない事の当事者にはなり得ません。

 

 

この世の中で、毎日のように、思わぬ出来事が起こっています。

先に挙げたような世界規模での問題以外のことです。

『どうして、そんなことが起こるんだ?』と思うような事が沢山あります。

 

それに対して思うことは、

その当事者は、はたして、その事に不安を感じていたのか(?)ということです。

 

おそらく、当事者にとっても思わぬ出来事だったはずです。

 

 

多くの人が不安を感じるであろう事柄について、

その事柄にまつわる沢山の情報について、

おなじ事実に対しての、異なる解釈や、正反対の意見が渦巻いていたとしても、

 

仮に自分が、なにか重い病気に罹っていて、

世の中に溢れる情報を、得る余裕も無く、

自分の病気と闘うことが全てだったとしたら、

不安というものは意味を持たないか、存在しないのではないでしょうか。

 

 

最後に、別の話をして終わります。

ある映画の登場人物の言葉を引用します。

 

『“知らせ” に良いも悪いも無い』

『(その事態が好転すること)を信じられなければ、それは悪い知らせである』

 

 

むろん、あらゆる物事は、必ず二つの面を持ち、つねに変化しつづけるものです。

つきぐっちゃん昼寝

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