じつは、最近ずっとあることに憤りを感じていて、そこから思ったことについてお話しします。
(できるだけ、抽象的な話をします)
ある人が悩みを抱えていて、その事を苦にして、自ら命を絶ったとします。
周囲の人は、いろいろな事を言いますが、その中で、
「~のように考えられれば(良かった)」とか、「何故~することが出来なかったのか(悔やまれる)」という事を言う人がいます。
しかし、それに対して思うことは「~できたら、最初から苦しんでいない」という事であり、
重要なのは、「~」すること以前に、「~」するための術(すべ)を知らなかったことだと分かります。
例えば、学業で成績が上がらない人が求めるべきは「勉強法」ではなく、「やる気をだす術」でなければなりません。(勉強法は世の中に溢れています、やるかやらないかです)
そう考えて、初めて本当の問題解決法を探求し始めることができます。
そして、問題解決法を考えるときの「論理」も重要なはずなのですが、この「論理」・「論理的」という言葉が、問題解決を遅らせたり、問題の根本原因への道を閉ざしたりすることがあると思うのです。
会社の業績を上げようと思えば、社員が意見を出し合い、ある「仮説」(問題の原因を仮定した)に従い実行したことについての「結果」を、都度検証することを繰り返します。問題解決というのは、そうやって行われるものです。
しかし、物事の「根本原因」と「結果」との関係性が、想像をはるかに超えていることがあるということも頭に置いておくことが大切だと思うのです。
昔、あるボクシングの選手が、試合に負けた原因は何だと思うかと問われて、こう答えました、
「今日の朝、パンを食べたから」
いつも朝食は米なのに、その日に限ってパンを食べたから負けたと言っているのです。
私は、その考えは正しいと思っています。正直に申しまして、そこにどのような「論理」が有るのか(或いは無いのか)考えることには、あまり重要性を感じられず、この場合、私が興味があるのは「習慣」というものが、いかに大きな力を持つかということです。
だから、無責任に言わせてもらいますが、彼は、いつも通り米を食べていれば試合に勝っていたと思います。
(「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークの天気が変わる」って聞いたことありますでしょ、映画「ジュラシックパーク」で)
ある人が太っている「本当の原因」は、食事量でもなく、運動量でもなく、
毎日、白い靴下を履いているからかもしれないのです。(例えばの話です)