我は人なり

大地震から一か月半ほど経過しましたが、

今も被災者の方々は、寒さの厳しい季節の中で大変なご苦労に耐えていらっしゃることだと思います。

人々が求めていることが、速やかに実現されることを望みます。

 

 

そういえば、『千羽鶴』が大災害の被災地等に送られることについて、

現在では、否定的な意見が一般的であると認識しております。

現実的なことを考えれば、当然かもしれません。

 

必要とされる『物資』にしても『人力』にしても、

適切に支援することは、なかなか難しいことのようで、

もはや、個人レベルの “善意” による行動などは、『無いよりマシ』というレベルにも及ばないのではないか?

そう思えてしまいますが・・・

 

 

多くの場合、

人が心底から求める事と、

求めに応じようとする人との間には、

『ズレ』があるものではないでしょうか。

 

その求めるモノが、いかに具体的であったとしても、

求める側には『理由』があり、

与える側にとっては『そのモノ』でしかないとしたら、

同じモノに対する “熱量” の違いというものが、まず存在することになります。(うまく言えませんが)

 

 

以前、あるテレビ番組を観ました。

とある国(貧困率の高い国とだけ言っておきます)で活動する日本人医師が紹介されていました。

その土地の多くの人々にとって、その方の提供する医療は無くてはならないものでした。

 

そのなかで、先天的に足の骨格に異常をもった少年が登場しました。

少年の片方の足は、足首から先が異常な方向を向いていました。

日本人医師は、少年の足に手術を施すことにしました。

 

手術前、

少年は、『足が治ったらサッカーがやりたい』と話していました。

 

手術は終わり、少年の足は、外見的には正常な足の形に近づいていました。

この時に医師の行った手術は、同様の患者に対して一般的に行われる方法がとられており、

手術の結果についても、医療環境などを考慮すれば『成功』といえる範囲のものでした。

 

 

(ここからは、私個人の憶測を含む見解です)

 

その後(手術から回復した後)の少年は、

サッカーボールを足で転がす様子は映されていたものの、その表情は、どこか寂し気に見えました。

 

ふと思いました。

手術前、『足が治ったらサッカーをやりたい』と言っていた、その言葉の真意は、

『プロのサッカー選手を目指したい』という意味だったのではないかと。

 

その国の子供たちにとって、

プロスポーツ選手になることは、“立身出世”  への道なのでしょう。

 

手術後の少年の足は、ボール遊びをするには十分といえる状態ではありましたが、

サッカー選手を目指すには不十分だったのでしょう。

そのことは、少年自身が一番よく分かっていたと思います。

少年の表情は、望みが絶たれたことを悟ったかのようでした。

 

もう一度言いますが、これは憶測です、真実とは異なるかもしれません。

事実として、

医師の処置は、少年の体の状態を確実に改善させたのです。

 

 

人が何かを求めるとき、そこには『理由』があると言いましたが、

『想い』があると言うべきかもしれません。

 

 

私の仕事は、一つは『痛みをとること』、そして『健康維持のお手伝いをすること』ですが、

それは、言い換えると『人の目標達成のお手伝いをすること』だと思ってきました。

(少なくても、そこに通じていると)

 

しかし、

『想い』を共有(共感)することが無ければ、

結果として、

人が進みたい『道』とは違う『道』の先を自分が見ていることに気が付かぬ、

そういう危険性もあるということです。

 

考えすぎですね

 

つきぐっちゃん昼寝

良い運動です

いわゆる “準備運動” というものについて、思うところがあるのでお話しします。

 

 

準備運動の最大の目的は、

ケガを防ぐことだと思います。

 

 

多くの人が、一番はじめに行うことは、

おそらく  “ストレッチ” と称する運動 ではないでしょうか。

 

でも実は、

『ストレッチ』を正しく行うことは、けっこう難しいのです。

それこそ、専門的に学んだ人でなければ、

さまざまな目的に合った効果的なストレッチを行うことは出来ないでしょう。

 

 

遡れば、小学校の体育の授業等において、

なんとなく見よう見まねでアキレス腱を伸ばした経験は、誰にでもあると思います。

 

それはそれで、べつに悪いとは言いません。体育の先生の指導のもとで行うことですから。

 

でも結局、

大人になっても『準備運動』といったら、

だいたい同レベルのことが行われると思います。

 

 

この、なんとなく『ストレッチらしき運動』は、

『ケガを防ぐ』という目的のために、『最初に行う事』としては適していません。

 

なぜなら、

体が温まっていない状態で、筋肉(腱)を機械的に伸ばしているからです。

下手をすると、この『ストレッチらしき運動』でケガをしてしまう可能性もあります。

(十分起こり得ることです)

 

 

筋肉を『ほぐす(柔らかくする)』ことと、『のばす』ことは違います。

 

たとえば、

身体の可動域を広げるために『のばす』としても、

その前に、『ほぐす』ことが必要です。

 

そして、『ほぐす』ために必要なことは温める事、

温めるために効果的なことは、

心拍数を少し上げることです。(少しです)

 

 

そこで(前置きが長くなりましたが)ひとつ良い運動をご紹介します。

 

 ↓クリックすると拡大できます

jyunnbiunndou

 

この運動は、1分も行えば十分です。

けっして、大きく素早く動いてはいけません。(言うなれば、準備運動の準備運動ですから)

 

これだけで、体全体が『ゆったり』して、温かくなってくるはずです。

 

さらに、もうひとつ良いことに気づくかもしれません。

重心が下がることです 😎  是非お試しを

 

 

たぶん年内最後の投稿となります。

良いお年を

 

つきぐっちゃん昼寝

1986

先日、かたずけモノをしていると、古い釣り具が出てきました。

それは、自分が中学1年のとき(37年前)に買った『リール』でした。

 

リールというのは釣糸を巻いておく道具ですが、

そのリールは、釣竿とセットで1000円ほどで売られていたモノでした。

 

釣り具というものは、高いものでは数万円~数十万円、

釣竿とセットで1000円前後というのは、いちばん安物の部類です。

 

そして、そのリールも、たしかに安物なのですが、

現在、釣具店で見る同程度の値段のモノと比べて、何か異質なものを感じました。

 

 

まったく飾り気のない外観と、

(小さい割には)持ったときに感じる『重さ』、

何十年も昔のクルマを見ているような・・・

 

すぐに思いました、『まだ十分使える、むしろ使ってみたい、面白そう』と、

 

 

昔と今とで、お金の価値が違うとしても、

1000円前後という値段が最安値の部類であるということは変わりません。

しかし、ハッキリいって、

そもそもの、モノづくりのテーマのようなものが、現代の安物とは違うように思えたのです。

 

なんと言いますか、

『限られた予算の中で、その道具が備えるべき最低限の機能性には抜かりが無い』という感じです。

また、(安物なりに)道具として使い続けられる、という前提があるように思います。

 

ここ最近の “釣りブーム” の中で、安物の釣り具というものは、釣りをやったことが無い人が特に気まぐれで購入し、一回きりで興味が失せて、そのまま釣り場に遺棄されることも少なくありません。

つまり、半ば『ゴミ』になることが前提で、だからこその安物であり、

それを売る側にとっても、売れさえすればいいのかもしれません・・・

 

 

その古いリールを暫くのあいだ眺めていると、

最後に、強烈なモノを発見しました。

とても象徴的で、

ひょっとすると、最初に感じた『異質さ』の正体なのかもしれません。

 

それは、『MADE IN JAPAN』の文字でした。

 

 

日本人にとって、

身のまわりにある多くの物が『メイド イン ジャパン』だった時代、

(安物の釣り具でさえも)

それが当たり前だった時代があったのでした。

 

madeinjapan

現実の世界

アメリカのニューヨークで、

パレスチナ人のデモ隊とイスラエル人のデモ隊が、道路を挟んで互いを非難しあっていたそうです。

(彼等は移民でしょうから、正確に言えば、皆アメリカ人ですが)

 

インタビューを受けたパレスチナ人の女性は、

『イスラエルが虐殺を行ったから、ハマスが生まれた』と言っていました。

このパレスチナ人女性は、ハマスの行った “テロ行為” を支持しているわけではありませんが、元をたどればイスラエルの行いに原因があると主張しているのでしょう。

 

 

直接の当事者ではなく、

また、異なる民族間の長い歴史について、大して知識を持たぬ者が、『対立を辞めろ』『報復を辞めろ』と言うのは簡単なことです。

しかし、そこには想像力が必要です。

 

報道されている事実だけでも、

多くの民間人が、武力行為の巻き添えになっていることは分かります。

 

それが、『もしも自分の家族だったら』という想像が必要だと思うのです。

 

というか、それは想像を絶するほどの悲しみと、そして怒りでしょう。

 

 

かつて、(随分むかしに見たことで、記憶が薄れていますが)

広島と長崎で毎年行われる、原爆の犠牲者を追悼する行事において、

(広島か長崎か忘れてしまいましたが)

アメリカ軍の関係者が慰霊碑に献花を行ったとき、

一部の被爆者と遺族が『ゴー、ホーム』と連呼し、さらに数人の男性が、供えられた花輪を足で踏みつけたのでした。

その光景がテレビで放映されていたのを見た時、私は衝撃をうけました。

 

この時も、もし私に想像力があれば、受け止め方は違っていたかもしれません。

 

 

ロシアとウクライナの戦争についても同じことですが、

紛争は、いつかは必ず終わるでしょう、

仮に、将来ふたつの国の国交が、表向きは回復したとしても、

家族を失った人たちの悲しみと怒りが消え去るわけがない、と思います。

 

国際社会の中で “テロリスト” と認識されている人々も、

元々は、そうやって生まれてくるのかもしれません。

 

 

とにかく今も、取り返しのつかない『分断』が起こっています。

だから、戦争をしてはいけないのです。

 

つきぐっちゃん昼寝

『私に隙あらば・・・』

むかしから、見るたびにモヤモヤする『とある光景』があります。

 

なにかと言いますと、

 

いわゆる『武術の達人』が、弟子を相手に、“技” の解説などを行うとき、

弟子は、師匠の技に、あっさりと掛かってしまうことが多いのですが、

“弟子”というものは往々にして、“すごい先生” の弟子であることにステータスを感じているので、

師匠の“神技” を一緒に再現することが、半ば無意識に当たり前になってしまい、

なおかつ未熟なので、師匠に対する“忖度” があからさまに見えてしまうのです。

 

 

先に言っておきますが、

わたしは、現代においての『武術』というものの価値について一定の考えを持っており、

それは、とても多面的な価値観であり、

例えば、病気によって往年の能力を失っていたとしても『すばらしい達人』といえる人が存在することを認めます。

 

それを踏まえた上で、

弟子は師匠に対して、余計な気遣いをすべきではないと思うのです。

そこには信頼が必要です。

 

 

実際に目の当たりにしたケースの話をします。

 

ある先生とお弟子さんが模範演武を始めました。

お弟子さんは、先生の手に触れたとたんに、自由を奪われたかのように「ウッ」っと軽く呻いて身体を硬直させました。

ところが、

先生は、初めに“ダメな例” を示そうとしていたのでした。

つまり、まだ本気で技をかけていなかったのです。

 

先生は達人ですから、たとえ本気でなくても未熟な弟子には技が掛かってしまったのかもしれませんが、

あきらかに、先にも述べた『師匠の“神技” を一緒に再現することが、半ば無意識に当たり前になってしまい、』が見て取れました。

 

この時のお弟子さんの反応が本物かどうか、

確かな事は、結局本人にしか分かりませんが、

師匠の技が効いていないのに『効いたふり』など絶対にしてはいけないと思います。

 

 

この時のやり取りが、どのように続いたのかというと、

先生は、こう言いました。『これだと(技は)かからないんですが、(-_-;) でも、こうすると・・・』

お弟子さんは、先ほどよりも苦しそうに呻きながら、床にしゃがみ込んでしまいました。

 

 

私の見立て通りに、お弟子さんの忖度があったとしても、私は、この先生に限っては、その実力を疑うつもりはありません。

そのような一面的な事では推し量れないほど、

武術を実践することの価値は底知れないと知っているからです。

もちろん、私個人の価値観です。

 

myoudaitemple

悲しいとき~

7←クリックすると拡大

 

海で魚釣りをする人にとって、非常にポピュラーな釣り場のひとつに、

いわゆる『漁港』が挙げられると思います。

私自身も、地元の愛知県岡崎市から近い蒲郡市の漁港で釣りをします。

 

 

漁港というものは、

主に漁業のために整備された場所であり、自治体や “漁協”(組合)によって管理されている場所です。

 

 

そのような漁港が一般人の立ち入りを禁止していたとしても、

基本的には、あたりまえの事と言えます。

 

しかし、

多くの漁港では、(全くの無制限ではありませんが)一般の釣り客の立ち入りが黙認されているのが現実ではないでしょうか。

 

黙認と言いますのは、

厳密に法律等に照らした話は別として、実際には(ごく一般的な?常識的な?)“人々の良識的な行動” に依存するかたちで、

防波堤などの施設への部分的な立ち入りと、そこで魚等を採取することに対して、

特に罰せられることが無い状態を指します。

 

 

人々の良識的な行動とは、

たとえば、

・ゴミを持ち帰る(持ってきた物をその場所に残さない)

 

・『立ち入り禁止』と明記されている場所に立ち入らない(漁業関係者に迷惑をかけない)

 

・小さな魚は逃がす等、魚を採りすぎない(水産資源の保全)

 

など・・・

※( )内に書いたことは、根底に求められる意識です。

 

 

そのような良識的な行動が逸脱されるようなら、

漁港は、『釣り禁止』あるいは『立入禁止』となってしまうでしょう。

 

 

 

考えてみれば、

海水浴場にゴミ問題があったとしても、

そもそも沢山の人が訪れることで成り立っている以上、閉鎖される事は考えにくいのかもしれませんが、

漁港は本来、沢山の人が釣りをするための場所ではないのですから。

 

 

とはいえ、それって余程の事なんじゃないの? と思われるかもしれませんが、

残念ながら、釣り禁止・立入禁止の場所が増えているのが現実です。

 

ちなみに、事故が起こった場合も即立入禁止です。

この場合は、海水浴場だって遊泳禁止になりますよね。

 

 

常々、理解に苦しんでいる事として、

釣りが好きな人は皆、

“マナー” を守ることが、釣り場を守ることだと分かっているはずなんですが、

しかし、

釣り場に落ちているゴミは、まぎれもなく釣り人が置いていった物だと分かります。

なぜなら、

それらが、釣り具のゴミだからです。(包装紙・ビニールなど)

 

あいさつブログ

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説明十分

あるところに『Aさん』という人がいました。

 

Aさんは、こう言いました。

『私は、いろいろな事を考えるスピードが遅くて、物忘れも多いです。』

 

『忘れても、大して問題にならない事なら気にしませんが、大切な事はメモしておかないといけません。』

 

『私に頼み事がある時は、必ずメモしてください。メモしてあることは、必ずその通りにやります。書いてない事はやりません。』

 

『その際、たとえ毎日メモしてある事でも、その日にメモしてなければ、その日はやりません。書き忘れかな?と思うかもしれませんが、そうではないかもしれないし、他の人なら気を使って融通をきかせるような事でも、私は、そういうことが出来ないんです。だから、大切なポイントがあったら、必ず書き添えてくださいね。』

 

 

(補足)Aさんは、慣れた事なら、人並み以上に早く正確に行える人でもあります。

 

 

Aさんは “能力の高い人” だと、私は思います。

先述した通り、

Aさんは、ご自身の能力(思考の特徴など)を自覚された上で、

大きな問題(特に他者との関係において)が起きないように、周囲に対しても前もって注意喚起をしてらっしゃるからです。

 

逆に言えば、

私なら、絶対に間違いがあってはいけないような大切な事を、Aさんには頼みません。

(Aさんに限らず、他者には頼みません)

だれが見ても確実に遂行できるような『説明書き』を書くことは、非常に難しいことだと思います。

 

 

Aさんに対して『それぐらい言わなくても分かると思って・・・』という考えは通用しません。

『他の人なら気を使って融通をきかせるような事でも、私は、そういうことが出来ないんです。』と、

ちゃんと説明されていますから。

 

つきぐっちゃん昼寝

 

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毒舌

人々の大切な財産である “貯金” を

必死になって “投資” させようとしてる輩がいるんですね。

(しかも “外国” に)

 

ここで言ってる “投資” というのは、

多くの人がイメージするような、

短期間でお金を増やす

という目的だけの、

株やら仮想通貨やらを含めた超くだらねえ話のことです。

 

銀行預金だって “投資” だけど、

多くの人は、単なる貯金だと思ってるでしょ?

私もそうです。

それはそれで、いいんです、べつに。

 

 

『投資』って、

本来すごく壮大な、夢と希望のあるモノだと思います。

というか、究極的には、それしかないモノなんだと思います。

でも、そこには計り知れない大きな価値があると思うんです。

 

 

アホみたいな理屈で、人々の老後の、

経済的な不安を煽り、

“資産運用” という、ちょっと誠実そうな言葉(私はそう思っている)と、

低リスクであるということ(この場合、リスクという言葉すら憚られるのだろう)を掲げ、

 

とにかく “投資” は今や、こんなにも敷居が低くて、

やらにゃ損、損、

“投資” こそが、人々のあらゆる不安を解決してくれる、と言わんばかりに、

広告塔としてアピールし続ける、芸能人たちのアホづら見てもイライラしますが・・・

 

 

実際に、“投資” で大きな成果を得た人がいたとしても、

その人は所詮 “ギャンブル” に当たっただけのこと。

 

 

はっきり言いますが、

お金は大切ですよ。(大切でしょ?)

“ギャンブル” なんぞ、1ミリたりともお金を大切にする行為ではないんですよ💢

 

そう思いませんか。

思わない?

 

あ、そう

 

明大寺マッサージ院 挿絵

 

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正直に言います

世の中に、

『自分は “心の病”を持つ』と、訴える人は多いんですね。

 

“心の病”って何?

と思うかもしれませんが、

まあ、なんとなく思い浮かぶような、

『うつ病』とか『〇〇恐怖症』とか、

それから、よくアルファベット三文字ぐらいで表されるようなモノまで含めた話だと思ってください。

 

 

このような話を耳にする時、

いつも思うことがあります。

 

もしも、あなたの“病気”を完全に克服できる方法があるとしたら、それを実践しますか?

(そのかわり)あなたは病人ではなくなります。

 

という問いかけをしてみたいのです。

 

 

わざわざ、(そのかわり)~ と付け加えた理由は、

それこそが、決定的に問うてみたいポイントだからです。

 

 

以下、私個人の考えです。(純粋な疑問でもあります)

 

癌などの病気に、日々命を削られている人は、

『病気を克服したい』

『健康な体に戻りたい』

『もっと生きていたい』

と、本気で望むでしょう。

 

では、

たとえば『うつ病』の人が、

医師の診断のもとで、(社会人であれば)仕事を休み、

身近な人たちからも一定の理解を得て、

比較的安定した気分で日常を過ごせている状態から、

 

一転して、

何ものにも揺るがない『最強のメンタル』を手に入れ、

社会生活をおくる上で、客観的にみて、自分の“足かせ”になるモノは何もなく、

他者と比べても、自分が不利だと言える要素は何もなく、

すべては、自分でコントロールすべき事であり、

すべて自分の力であり、自分の責任である。

 

という状態を、心から望めるものでしょうか(?)

 

 

わたしは、絶対に望むべきだと思っています。

 

明大寺マッサージ院 挿絵

 

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『お大事に』といったら『お大事に』

以前、テレビで見たんですが、

先天的に『痛み』を感じない人がおりまして、

この人は、当時まだ子供なんですけどね、

痛みを感じないがゆえに、ケガをすることも多いらしいんですね。

 

彼は、痛みを感じないだけであって、

身体の強度といいますか、(言葉が適切ではないかもしれませんが)

皮膚・筋肉・骨などの耐久性は、他の人と同じなわけです。

 

でも痛みを感じないので、

たとえば、日常の遊びの中で、

体を傷つけてしまうような負荷を、体に掛けてしまうことがあるらしいんですね。

 

テレビで見たとき印象的だったのは、

骨折した脚が治っていないのに、ピョンピョン飛び跳ねて、はしゃいでいる姿でした。

 

何度か、崩れ落ちるように床にしゃがみ込むんですが(そりゃそうですよね)、

やはり、全く痛みを感じていない様子でした。

 

それで結局、

周囲の人間にとって、難しい事というのは、

ケガを治すために、

本人に、患部を安静に保つことを徹底させる事なんですね。

 

 

みなさんは、

肌を擦りむいたり、切ったりしたときに、

絆創膏を貼ったりしますよね。

 

患部に触らなければ、べつに貼らなくてもいいんですけどね、

でも、なにかしら触ってしまうので(衣類で擦ったり)、

患部を安静にするために覆ってしまうわけですね。

 

 

体の表面のケガに対しては、

だれでも気を使いやすいんですけど、

その一番の理由は、見た目に痛々しいからだと思います。

 

これが、“体の内側の ケガ” となると、

見た目の痛々しさを感じにくいので、

『痛み』だけが、患部を意識させる要素となるわけですね。

 

“ぎっくり腰” や “五十肩” でもですよ、

特定の動作や、患部周囲の状態によって、

患部に何かが触れたり、圧迫されたりするから、

強い痛みを感じるわけです。

 

絆創膏でも貼れりゃいいんでしょうけどね、できないから、

その代わりに、

患部(炎症を起こしている部分)が、

極力、周囲からの接触・圧迫を受けにくくするための処置を行うことはできます。

(とはいえ、それで完全に患部を保護することなんて出来ないですよ。少なくても私には)

 

 

たとえば、痛い所に骨が当たっていたら、よけいに痛いですよね。

だから、骨に当たるところから、ほんの少しズレるように、

あるいは、痛い所と骨との間に、ほんの少し隙間が空くように、

そういう状態にあるとき、

患部は『安静』に保たれているわけです。

 

そして、安静が保たれる中で『治癒』していきます。

 

 

しかし、この安静な状態は、患者さん本人の行動次第で、容易に崩されてしまいます。

 

 

ちがう角度からの話ですが、

いわゆる麻酔によって、痛みを感じなくした場合はどうでしょう?

 

これも、患部をより安静に保つための処置に他なりません。

なにより、

強い痛み、夜間に増強される痛みは、心身を消耗させますから、

痛みから解放されることで、体力を温存し、治癒を早めるでしょう。

 

ところが、

多くの人は、痛みが無くなったとたんに、普通の生活をしてしまうでしょう。

これは、先に述べた “痛みを感じない人” と同じことです。

 

 

あらためて考えてみますとね、

痛いからこそ、痛い動きを避けようとするし、痛い所を庇いもするわけですよね。

(例のテレビ番組のテーマも、そういうことだったかも)

 

最後に、これだけは言わせてください。

安静にするから治るのだと

 

つきぐっちゃん昼寝

 

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